第11話 紀君

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第11話 紀君

「それ、紀君にも伝えていいかな?一応、僕がある程度の情報を集めて、紀君のお見舞いに伺うことになってるんだけど……いっそ、季姫も一緒にくる?ちゃんと後宮に務めてる人間が調べてるってわかる方が、紀君も安心できるだろうし……季姫って、紀君と後宮で面識はあった?」  貫之の提案に、季姫は渡りに舟とばかりに乗り気になる。 「是非、そうさせて下さい。紀君と私は、お仕えする方が違いますし、曹司の場所も離れていますから……たまに、お見かけしたりすれ違ったりする程度でしたけど」 「太后って、もしかして紀君のこと、お気に召してなかったりするの?」  貫之は、季姫の主などとうに承知している。季姫もそれはわかっている。ただ、今回の季姫の務めが、高子その人からの命なのか、それとも別の誰かからの指示なのか、そこまで踏み込んで、事情を伝えることはできないし、貫之も聞かないことにしたのだ。 「そんなことはありませんけど……でも、特にお気に入りというわけでもありませんね。紀君は乳母殿の縁ですし、太后からすれば、失礼ながら取るに足らない、といったところでしょうか」 「ははっ、手厳しいな。正式な女御でもなければ、更衣ですらないからね。嫌われていないだけましか」  季姫は、無礼を承知で歯に衣着せぬ言い方をした。相手が貫之だからこそ、下手に取り繕っても仕方ないと、考えたのだ。その言葉に、貫之は軽く苦笑する。  しかし季姫の発言は、いくら無礼な言葉であったとはいえ、高子の女房だからと、虎の威を借りてのことではなかった。ただ、自身の経験から出ただけのことである。 「後宮では、式家だからと藤原の養女である私でさえ、肩身の狭い思いをすることが多々あります。いくら乳母殿の後見があるとはいえ、紀氏の方が今上の寵を賜ったのですから、そのお立場は察するに余りあります」 「そう言われるとなあ……うちだって、先々帝の御代やその前には、更衣になられた方もいたんだけどね」  三代前の仁明帝、つまりは深草少将の本体、とでもいうべき御方の更衣であった種子(たねこ)と、その第一皇子であり藤原北家の順子(のぶこ)を母とする先々帝、文徳帝の更衣であった静子(しずこ)の二人は、共に紀名虎(なとら)を父とする姉妹である。つまり、紀氏の出であった。ちなみに、貫之の祖父である本道は、彼女たちの従兄弟にあたる。 「ですが、その頃には、有力な女御の方が大勢いらっしゃったのでしょう。それはそれで、ご苦労もおありでしょうけど……今は、どなたもいらっしゃいませんから。周囲の視線は、一層厳しいものがあると、察します」  昨年元服を済ませた今上には、女御の一人くらい、いてもおかしくはない。女御とはいわず、せめて元服時の添伏役の女性の入内くらい、あってしかるべきである。しかし今に至るまで、そのどちらもなかった。ただ、以前からの遊び仲間であった紀君がただ一人、寵を賜っているだけなのだ。  女御や添伏がいないのは、高子が基経につながる娘の入内を嫌がっているという話もあれば、紀君が最初に寵を賜ったのは、今上の元服前であったため、周囲に敬遠されているという噂もある。  どちらにしろその理由に関わらず、紀君一人に、後宮の目が向いてしまうのは、仕方のないことであった。 「それじゃ、女御様でもいれば違うって?」  季姫の言葉に、貫之はやや投げやりに尋ねる。それほど近しいわけではないとはいえ、やはり同族の女性が後宮で肩身の狭い思いをしているというのは、あまり気持ちのいいものではないのだろう。 「さあ、どうでしょう。今まで通り、今上の紀君へのご寵愛が深いままで、今上が女御様にお心を砕かれることがなければ、かつてのお祖母様のように、後宮を追われているかもしれません」  貫之の問いに、季姫は言葉を選んで答える。もし、藤原北家出身の女御がいたとして、それより身分の低い女性を特別に寵愛するということは、却ってその女性を、危険な目に遭わせることになりかねない。 「確かにね。季姫も、随分と世慣れたものだね」 「出仕が決まって、お祖母様から散々叩き込まれましたから」  苦笑いを浮かべる貫之に、季姫はにっこりと微笑み、ほんの少しだけ、胸を張った。 「そりゃああの子は、少々乱暴なところはありましたよ。ですが益は、今上をお守りするお役目でしたから、武術の腕が立たなければ意味がない。だからと言って……万が一にも、今上のお気に障るようなことをするなど。そもそも、今上は大変お優しく、穏やかな御方。もし、もしも万が一にも、畏れ多くも今上が益に手を出されたとしても、益なら、容易く今上をお止めすることができたでしょう。私がお側にいれば、こんなことには……」  季姫は貫之と共に、紀君の邸を訪ねた。紀君に会うより前に、全子の話を聞いてみる。予め、貫之から季姫のことを、知らされていたのだろう。形ばかりの挨拶を済ませると、全子は、季姫が何か尋ねるより前に、話し始めた。  乳母というのは、授乳だけがその仕事ではない。通常、授乳期間が終わっても仕え続け、幼い頃は養育係として、成人した後は女房達の筆頭として仕えることになる。全子も日頃は、内裏で今上の側に仕えている。しかし今、身籠もった紀君を案じる今上の意を汲み、里下がりした紀君に付き添っているのだ。  その、全子が不在の間に、事件が起こってしまった。 「紀君のご様子は、いかがですか」  季姫が、遠慮がちに尋ねると、全子はわずかに微笑みを浮かべた。 「今は、だいぶ落ち着いたわね。山井と言ったかしら。あなたなら年も近いし、貫之殿のお知り合いなら安心よ。少し、話し相手になってもらえると助かるわ」  紀君の父に挨拶するという貫之と別れ、季姫は全子の案内で、紀君が使っているという西の対に案内された。季姫は、廂ではなく、御簾の中である身舎(もや)に通された。季姫が挨拶すると、紀君は女房に命じて几帳を移動させたため、直に対面することとなった。 「お話は聞いています。でも、あまり詳しいことがわからなくて……その……わかっていることだけでも、教えて頂ければ……」  紀君は、か細い声で遠慮がちに尋ねる。出仕したばかりの季姫が見かけた時より、ややふっくらとしているが、その表情は青ざめていた。 「私も、詳しく知っているわけではないのです」 「そ、そうですよね。ごめんなさい」  儚げで謙虚な紀君には、『今上の寵を一身に集める、今を時めく寵姫』といった風情は、一切ない。紀君に対面した季姫は、ふと後宮ですれ違った時のことを思い出す。こちらが新参であったにも関わらず、紀君に道を譲られたのだ。そのときは三条と一緒であったし、自分はともかく三条が高子の腹心の女房であることは知られているから、高子に遠慮したのだと思った。もちろん、それもあるだろうが、この紀君であれば、例え、季姫が一人であり、高子の女房と知らなくても、道を譲ったのではないかと思われた。  そういった紀君の美徳こそが、今上の心を捉える理由であり、唯一の寵姫たる所以なのではないかと、季姫は考える。 「あ、いえ謝らないでください。それで紀君は、事件のことを、どのように聞いていらっしゃるのですか」 「最初は、乳母殿に宛てて、知らせがあったのです。益殿が、ご不幸に遭われたと。ですがその後……下女の一人に、内裏の近衛と親しくしている者がいて、益殿が亡くなられたのは御前であったという話が……」 「そんな話まで……」  紀君の話に、季姫は思わず顔をしかめた。  高子は、後宮より外に、詳しい話が広まらないようにと、箝口令を敷いていたはずだ。とはいえ、高子の命令は、後宮の女官や女房達には届いても、近衛達にまで、完全に行き渡らせることはできない。事件に今上が関わっているかもしれない、という噂自体、一体どこまで広がっているのかと、季姫は少々頭を抱える。 「あ、あのごめんなさい。何か、お気に障るようなことを……」  季姫の表情を勘違いしたのか、紀君が詫びの言葉を述べた。ついさっきも、同じ言葉を聞いた季姫は、紀君には謝り癖があるのだろうかと、内心ため息を吐く。控えめで謙虚なのはいいが、もう少し、自信を持ってもいいのではないかと、自分より遙かに後宮勤めが長い相手に対して、いらぬ世話を焼きたくなる。 「そんな、頻繁に謝らないでください。ただ……今更かもしれませんが、できれば、その下女と近衛に口止めして頂けると助かります」 「それなら……乳母殿が」  全子は、今上の乳母だけあって、頭の回転が速く、賢明な女性であった。会って早々、捲し立てるように話を聞かされた季姫は、その勢いに圧倒されたが、その内容も決して、今上の立場を悪くするものではなかったと、思い至る。 「それなら安心ですね。紀君が案じておられるのは、今上のことでいらっしゃいますか」 「そうなのです。近衛の話では、今上と益殿以外、その場にはいなかっただろうと。でも、あの御方が、そのようなことなさるはずありません」  か細く、頼り無げであった紀君の口調が、変わった。力がこもり、はっきりと断言したのだ。その言葉に季姫は、紀君の今上への想いを垣間見、眩しさを覚えた。 「今上を、信じていらっしゃるのですね」 「もちろんです」  季姫は、紀君の言葉の眩しさを感じながらも、聞くべきことと言うべきことは、明確にしなければと、居住まいを正した。 「では紀君は、今上と益殿以外に、どなたかのお名前を聞いていらっしゃいますか」
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