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第12話 若狭
「いいえ、どなたも……でも、今上はとてもお優しい方ですし、腕力では、益殿に敵う者など、周囲にはいませんでした。だから、何かの拍子に今上が益殿に手を上げられるようなことがあったとしても、不幸な事故には、至らないと思うのです」
「乳母殿も、同じことを仰っていました。ですから、私もその話は信じることにします」
もちろん、全子と紀君が口裏を合わせている可能性が無くは無い。しかし、高子の話や巷の噂話から知れる今上の人柄と、貫之から聞いた益の話とも矛盾しないことから、まずはその前提で、調べを進めても問題はないだろうと、判断したのだ。
「ありがとう、山井殿。でも、そうなると、一体何が……」
「その場にいた人物は、もうお一方いらっしゃいます。事件を知らせた、王侍従殿です」
「でも、王侍従殿が、御前に伺候したときには既に……」
「あくまでご本人の話ですから、裏を取る必要があると考えています。そしてもう一人、これはまだ、確証のとれていないことですが……」
「もう一人?」
「はい。もう一人、どなたかが伺候していた可能性があります。あの日、どなたが伺候されていたのか、事件の時には、その場にいらっしゃったのか、調べているところです」
季姫は紀君に対して、どこまでの情報を伝えるべきか、一瞬迷う。迷った結果、貫之に伝えたのと同じ、周囲に知られても差し障りのない内容だけを伝える。その場にいたのは、今上だけではない可能性があることだけは、伝えたかったのだ。
里下がりを終えて後宮に戻った季姫は、校書殿(きょうしょでん)を訪ねた。日頃は、漢籍などの書物を読むことが多いが、この日の目的は違った。益の事件について、何か文書が作られていないか、調べてみようと思ったのだ。
季姫は、外記(げき)達の姿が見えないことを確認すると、公文書の棚へ近付いた。しかし……
「山井(やまのい)、久しぶりじゃない。そっちの棚を見るなんて、珍しいわね」
袿を破いた日以来、会わなかった若狭(わかさ)に、遭遇した。
さすがに若狭の前で、事件のことを調べるわけにはいかない。季姫は、幾日か振りに友人に会えた嬉しさと、目的を果すことができない残念な気持ちの両方を抱きながら、何事もなかったかのような顔で、若狭のいる漢籍の棚に移動した。
「若狭こそ久しぶり。向こうには何があるのかと思って」
「あっちは、公文(くもん)とかそういうものよ。あれはあれで面白いけど……あんまり勝手に見ると、外記達に怒られるのよね」
外記というのは、太政官の役人であり、文書の管理もその職務の一つである。
校書殿には、書物だけでなく、公文と呼ばれる公文書も置かれている。書物も公文書も厳重に管理されているが、特に公文書は、その閲覧にも制限がある。本来は、季姫が見ていいものではないのだ。
しかし季姫は、高子の計らいで書物の閲覧を許されており、校書殿への出入りを見咎められることはない。だから、人の目さえなければ、公文を見ることはできる。今は、若狭がいるからこそ、諦めなければいけないのだ。
それでも季姫は、若狭の言葉に同意するかのように、落胆する表情を作った。そうして、別の話題を持ち出した。
「そうよね。あ、この前は袿、ありがとう。返さなくちゃと思ってるんだけど……」
「ああ、あれ。別に気にしなくていいわよ。山井にあげるわ」
袿を返さなくていいという若狭に、季姫が食い下がろうとした時であった。
「若狭、ここにいるのか」
若狭を呼ぶ男性の声が聞こえ、季姫は身を震わせる。仁寿殿で出会った、あの公達の声であった。季姫は、慌てて顔を背け、奥に逃げようとする。
しかし、それをいらぬ気遣いと取った若狭に、連れ戻される。
「あら、このお声は、王侍従殿。山井、遠慮しなくていいいわよ、紹介するから。どうぞ、お入りになって」
「では、失礼する。ん?こちらは……」
やはり彼は、定省王であったのだと知り、季姫は、顔を伏せて扇で隠す。
「親しくしている山井殿ですわ。ここで知り合いましたの」
「校書殿で?それは珍しい」
若狭の紹介に、定省王はさも興味深げに答える。季姫は見えないながらも、自身に注がれる鋭い視線を痛いほど感じた。
「山井と申します。私はこれで失礼させて頂きますので……」
今すぐにでも、この場を退散したい衝動に駆られ、季姫はやや上擦った声で挨拶する。しかし定省王は、季姫の気を知ってか知らずか、それとも、友人と語らう若狭を気遣ってなのか、自分の方がすぐに出て行くと言う。
「別に構わん。俺は、これを渡しに来ただけだ」
「まあ、『白氏文集(はくしもんじゅう)』ではありませんか」
定省王が、懐から何かを取り出す気配がした。それを若狭が受け取り、声を弾ませて喜ぶ。季姫が、視線を若狭の手元に投げると、それは一冊の草紙で、表紙には『白氏文集』の文字が書かれていた。
『白氏文集』とは、唐の詩人白居易(はくきょい)の詩文集である。嵯峨帝から仁明帝の頃に伝来し、貴族達の間で、広く読まれている。
「ああ。侍読(じどく)殿から、頼まれていたものだ」
「父からですか?」
定省王と若狭の会話から、季姫は若狭の身分と出自を知る。
侍読とは、今上に学問を教授する役である。現在の侍読は、今上が東宮であった頃から東宮学士として学問を教授してきた人物で、従四位下式部大輔(しきぶのたいふ)兼勘解由使(かげゆし)長官橘広相(ひろみ)である。若狭がその娘であるというなら、若狭内侍(わかさのないし)と呼ばれる女官、掌侍橘(ないしのじよう)義子(よしこ)ということになる。若狭とは、広相の父橘峯範(みねのり)が若狭守であったことに由来する。
橘広相は、若い頃よりその才を謳われ、博識なことで名高い人物である。娘の義子もまた、その薫陶を受けており、並外れて聡明であるというのが、専らの評判であった。
季姫は、親しい友人である若狭が、自分よりかなり上の立場にあることを知り、これまでの言動を後悔する。しかし、若狭こと義子は、自分の立場をひけらかそうとはしなかったから、あえて季姫に悟られないよう、気を配っていたのかもしれない。
「侍読殿がお持ちのものは、幾人かの手を渡っているそうだからな。これは父上から借りたものだ。嵯峨帝が、秘蔵されていたものの写しだ」
書籍は、人の手で写され、それがまた写されて広まっていく。紙は貴重品であり、もし書き損じがあったとしても、訂正されないまま、見た目に美しい文字が並ぶ草紙が作られる場合が多い。また、写し手がより良いと思えば、勝手に書き換えてしまう場合もある。だから、人の手を経れば経るほど、本文の異動が大きくなることになる。
「式部卿宮(しきぶきょうのみや)様が?」
「そうだ。父上が、深草帝(ふかくさのみかど)から賜ったもので、元の本から、直接写されているそうだ。一字一句、間違いが無いと聞いている」
深草帝の呼び名は、深草少将の名乗りと同じ深草陵を由来としており、仁明帝のことである。定省王の父、式部卿時康親王は仁明帝の第三皇子であり、仁明帝は、定省王から見れば祖父にあたる。しかし、いくら孫とはいえ、帝位にあった祖父を、例えばお祖父様などと、親しげに呼ぶわけにはいかないのだ。そのさらに上、曽祖父にあたる嵯峨帝ともなれば、尚更である。
この国で初めて『白氏文集』を手に入れたと言われる嵯峨帝は、その仁明帝の父にあたる。つまり、当時仁明帝の手元には、嵯峨帝が初めて手にしたという『白氏文集』そのものがあり、それを時康親王のために、一字一句、間違いなく写させたということらしい。
「そんな貴重なものを……よろしいのですか」
声を震わせ、やや緊張した様子を見せる義子に、定省王は、事も無げに答えた。
「何、構わん。この本も、侍読殿の役に立てれば嬉しかろう。父上も、侍読殿になら是非、読んで頂きたいと仰せでな。ただ、さすがに式部省で、父上から侍読殿に渡すわけにもいかぬらしい。それに、そなたもこれを読みたがっていると、聞いていたからな。ならば、直接渡す方が、早かろうと思ったのだ。読み終わったら、侍読殿に渡しておいてくれればいい。もっとも、久しぶりに、そなたの顔を見たかったのもある」
定省王の言葉に義子は礼を述べると、恐る恐る丁寧に、『白氏文集』を腕に抱きかかえ、自分の曹司に置いてくると言ってその場を離れた。
「山井と言ったな。藤典侍殿に縁の者とばかり思っていたが……違うようだな」
義子の姿が見えなくなると、定省王はその口調と視線を一変させた。扇越しに刺さる視線が、痛かった。季姫は、その鋭さに負けないよう、虚勢を張る。
「何のことでしょう。どなたかと、お間違えではありませんか」
「恍けるな。先日、仁寿殿にいたのは、山井お前だろう。あの時は、衣の黒方に惑わされたが……髪に移った紅葉の香りはごまかせまい。あれは、太后殿のものだな」
明確な根拠を示された季姫は、これ以上の言い逃れはできないと、腹をくくる。腹をくくって、開き直った。
「だったら、何だというのです」
「太后殿の女房が、何を探っているのだ。余計なことはするな」
定省王はそれだけ言い捨てると、踵を返して校書殿から立ち去った。
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