第13話 今上

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第13話 今上

 内裏で、また事件が起きた。否。正確には今度こそ、今上(きんじょう)その人が、事件を起こした。  十一月十六日。この日は本来、五穀の収穫を祝い、感謝を捧げる新嘗祭が行われる予定であった。しかし内裏で人死が出たということで、取り止めとなった。これより三日前にも、大原野社の祭祀が中止されている。  新嘗祭は取り止めとなったが、内裏の正面に当たる建礼門の前で、ある祭祀が行われた。大祓である。この大祓で、ようやく、人死が出た穢れが清められることになる。  その最中のことである。  内裏に、突如として馬の鳴き声が響き渡った。慌てて、女房や女官達が駆け付けると、紫宸殿(ししんでん)の南庭で、今上が若い官人達と共に、馬を乗り回している。 「清如(きよもと)、いい毛並みだね。君に世話を任せておけば、安心だよ」 「ありがたきお言葉にございます」  先年、元服を済ませたばかりの今上は、未だ幼さの残る、あどけない少年である。  南庭を一回りした今上が、馬上から別の馬を引く人物に声を掛ける。右馬寮の役人で、右馬少允小野清如という。馬の世話を任せたら右に出る者はないと言われている人物であった。清如は恐縮し、手綱を持ったまま、その場で頭を下げた。 「正直(まさなお)、次は日華門(にっかもん)を超えるよ」 「臨むところでございます」  次に今上が声を掛けたのは、また別の馬に、今度は騎乗している人物であった。清如と同じ右馬寮の役人で、清如の部下にあたる右馬権少属紀正直である。馬術に優れ、早駆けで敵う者はなく、どんな難所でも軽々と通ってしまうとの評判である。  今上は正直と共に、日華門の反対側にある月華門(げっかもん)へと馬の鼻先を向ける。月華門を背に、南庭を横切って勢いをつけ、門の外へ出るつもりなのだろう。 「公門(きみかど)、誰かが門を通らないよう、向こう側で見張っていてくれるかな?」 「ははっ。かしこまりました」  今上が三番目に声を掛けたのは、紫宸殿の階(きざはし)の下に控える、藤原公門である。公門には正式な官位はないが、清如の友人で、日頃から右馬寮に出入りしているという。 「まあ、今上の御前でなんと無礼な」 「今上、危のうございます。おやめくださいまし」 「そこな者ども、今上に悪い遊びをお教えするでない」 「どうか、お目をお覚ましください、今上。そのような下々の者と戯れるなど、あってはなりませぬ」  ある者は若い官人達の無礼を咎め、ある者は今上の身を案じ、口々に、悲鳴に近い声をあげる。  しかし、今上とそれに従う三人の若者達は、女達の声に一切聞く耳を持たず、一向に、騒ぎをやめようとはしない。  それどころか、再び日華門から姿を現した四人は、騎馬して欄干の近くまで駆け寄り、彼らを諫めようとする女房や女官達を怖がらせては、楽しむ様子さえ見せる。  突如、女達の悲鳴が止んだ。視線が一斉に、紫宸殿に向けられる。  深紫の束帯を着た、恰幅がよく貫禄のある人物が、険しい表情で今上と三人の官人を見つめていた。深紫は、一品から四品の親王の他には、一位を叙位された者だけが身に纏うことのできる、臣下としては最高に高貴な色である。  その人物に気付いた今上が、騎馬のまま、紫宸殿へ向かう。 「摂政、久しぶりだね。やっと出てきてくれたんだ」  それは、従一位太政大臣藤原基経(もとつね)であった。今上が即位して以来、摂政を務めている。今上の元服に伴って、その職を辞す意思を見せたが認められず、現在は自邸である堀河殿に引きこもっている。しかし、その実、摂政を辞し、出仕しないのは、今上の生母高子(たかいこ)との関係が悪化しているからだという噂もある。  そしてそれは、高子の様子から、全くの風評であるとは、言い切れない。  基経の後ろには、付き従うようにして、女性が控えている。藤典侍(とうのないしのすけ)藤原淑子(よしこ)である。 「これは、どういうことですかな。内裏で馬を飼うどころか、乗り回すなど、もっての外でございますぞ」  基経が今上を諫める言葉には、尊大さだけが溢れている。言葉こそ丁寧だが、今上への敬意や気遣いといった感情が、一切排除されていた。  一方の淑子からは、心から今上を案じる様子が見て取れる。 「今上、危のうございます。畏れながら、御身に何かあってからでは、遅うございます」  しかし今上は、二人の言葉に耳を貸そうとはしなかった。 「何かねえ……摂政には、その方が、都合がいいんじゃないの」 「何を仰せられるのです。ともかく、即刻馬からお降り下さい。それと、そこな者ども、今上に悪しき遊びをお教えするとは、何事か。二度と、御前に姿を見せるでない。連れて行け」  基経が命じると、近衛(このえ)達が現れ、三人の官人を引き立てる。基経の登場ですっかり萎縮した三人は、大人しく従った。 「そんな……朕(ぼく)が三人に頼んだのに」  その様子を気遣わしげに見守る今上に、淑子が声を掛ける。 「彼らの身をお思いなら、どうかお振る舞いをお慎み下さい」 「藤典侍まで、そんなこと言うんだ。わかったよ。馬は諦める。だから、三人のことは、咎めないでくれる?」  淑子の言葉に、今上は諦めたように呟いた。その様子に基経は、少しだけ譲歩する。 「御前の伺候は認められませぬが……当分、物忌(ものいみ)にでもしておきましょう。それなら、よろしいですかな。ああ、物忌明けは、今上次第ということで」 「仕方ないなあ……」  今上は不満を残しながらも、三人が公の処分を免れたことに安堵し、笑顔を見せた。
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