第02話 事件

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第02話 事件

 今上(きんじょう)の乳兄弟が、格殺(かくさつ)された。  その知らせは、瞬く間にしかし密やかに後宮を駆け巡った。ある者は怯えながら、ある者は好奇心を漲らせ、ある者は悲しみを湛えながら、口々に噂を広める。そのため、ようやく皇太后藤原高子(たかいこ)の耳に話が届いた時には、高位の女官や女房達はもちろんのこと、果ては女嬬(にょじゅ)や雑仕女(ぞうしめ)に至るまで、後宮中の女たちが事件を知っていた。 「今上が……まさか、あの子がそのような……」  報告を受けた高子は、呻くように呟きながら、その場に頽れた。  務めに出てまだ日の浅い季姫(すえひめ)が、ようやく落ち着きを取り戻した高子に呼び出されたのは、その日の午を過ぎた頃であった。主である高子とは、初めて出仕した日、挨拶に参上して以来の対面である。  季姫は、やや緊張した面持ちで高子の居所である常寧殿(じょうねいでん)に伺候した。 「そなたが山井(やまのい)か。事件は聞いておろう」 「はい。皆様方が、お話されていましたから」  季姫を、女房名の山井と呼ぶ高子は、齢四十二を数える。良家の育ちらしく、いかにもゆったりとして鷹揚に見えるが、言葉の端々から、隠しきれない尊大さがこぼれ出ている。二十五歳で、当時十七歳であった先帝に入内して女御となり、三年後、貞明(さだあきら)親王を産んだ。その貞明親王が帝に即位して今上となり、今に至る。  かつては、色男として名高い在原業平と浮き名を流したらしいが、今では、その業平も亡くなり、今上を憚って話題にする人は少ない。  高子より目上の女性としては、先々帝の后である太皇太后藤原明子(あきらけいこ)が健在ではあるが、里邸である染殿でひっそりと暮らしており、表舞台に出ることはほとんどない。それもまた、高子の権勢をますます強めている。 「近衛が駆け付けた時、仁寿殿(じじゅうでん)には今上しかおられなかったという。しかし今上が、あのような大それたことをなさるはずがない。あれは、虫も殺せぬような優しい子じゃ」 「仰せの通りでございます」  仁寿殿とは、現在今上が御所にしている殿舎である。内裏のほぼ中央に位置し、すぐ北側には、後宮の殿舎の一つである承香殿(じょうきょうでん)があり、その北が常寧殿である。  今上を近しく知るわけではないが、その人柄は、参内以前の季姫の耳にも届いていた。常に下々の者にもお気遣いくださり、また分け隔て無く接してくださる、お優しい方だというのが、巷の噂である。 「誠に、そう思うておるか。下手な慰めなどいらぬが……まあよい。山井、そなたを呼んだのは他でもない。ことの真相を、内密に探って欲しい」 「私が、ですか……何故、私などに……」  季姫は、自分が選ばれたことを不安に思う。まさかとは思うが、自身が決して周囲に打ち明けていないことを、主が知っているのではないかと危惧したのだ。 「わたくしが動いていると、知られたくないのでな。そなたなら出仕して間もなく、この常寧殿の者と知る者は少ない。幸い、そなたの曹司(ぞうし)は宣耀殿(せんようでん)にあるしのう」  曹司とは、女官や私的な使用人である女房達に与えられた部屋である。部屋といっても、完全に区切られた個室ではなく、主のいる身舎(もや)を囲むように作られた廂や、殿舎と殿舎の間の通路である渡殿の一部に、障子(ふすま)や棚などを置いて仕切っただけの空間であった。曹司の場所は通常、所属する部署や仕える主によって決まる。だから、高子に仕える女房達の曹司は、本来なら常寧殿に置かれることになる。  しかし、皇太后である高子には、多くの女房が仕えている。そのため、常寧殿だけでは到底場所が足りない。だから、季姫のように新参の女房達は、隣の殿舎である宣耀殿に、曹司を賜っているのだ。 「そ、それなら……伯耆(ほうき)殿も同じです」  高子の意図を探ろうと、季姫は自分と同時期に参内し、同じく宣耀殿の曹司を遣う同僚の名を挙げた。しかしその名は、高子を苛立たせるものであった。 「山井、何を聞いておった。この太后が動いていると、知られたくないと言っておろう」 「出過ぎたことを、申し訳ございません。仰せのままに」  その様子に季姫は、高子が誰に対して知られたくないのかを察し、慌てて詫びる。季姫自身は、父の藤原枝良(えだよし)が太皇太后宮少進(たいこうたいごうぐうのしょうしん)という役職にあり、明子に仕えていることから、その伝手でこの常寧殿に参内することになったが、伯耆の紹介者は違う人物である。ここ最近、高子はその人物とは、対立関係にあるとの噂が流れている。だから高子は、その人物にこそ、知られたくないのだろうと、推察したのだ。  同時に、主が自分の力を知ってのことではないと確信し、安堵を覚える。 「何ぞ、入り用の物や私への用があれば、この三条に申すがよい」  高子は、自身の側に仕える古参の女房を指名した。三条は、いつもの様に女童(めのわらわ)の阿世(あよ)に伝えるようにと、言葉を添えた。  三条は、高子に仕える女房の中でも、筆頭と言える存在である。出仕して以来、季姫は、この三条の指示で動くことが多い。とはいえ三条自身、高子の側に控えることが多いため、大抵は女房の見習いとも言える女童が、その用件を伝える。利発で目端の利く、阿世という名の女童は、三条の遠縁に当たるらしく、特に可愛がられている。  元慶七年十一月十日のことである。  格殺、つまり殴り殺されたのは、今上の乳母紀全子(またこ)と従五位下源陰(かげる)の間の子で、益(すすむ)という。幼い頃から、当時は東宮であった今上に近しく仕え、共に元服した後には、私的な護衛を務めていた。益自身は主だった官位には就いていなかったため、公には「源大夫の子」と呼ばれていた。大夫というのは、五位を授けられた者に対する呼称であり、益の父である陰が、姓の源と合わせ、源大夫と呼ばれていることから、単にその子であるということが、益自身の立場であり身分であった。  益が格殺されたのは、畏れ多くも今上の御前であったという。現在、今上が御所としている仁寿殿の庭先で、益の死が確認されている。益の死を知らせたのは定省王(さだみおう)で、侍従に任じられていることから、王侍従と呼ばれている。  定省王は、今上より三代遡った仁明(にんみょう)帝の皇子一品宮式部卿時康(ときやす)親王の子である。つまり今上には、年の近い従兄弟叔父に当たる。非常に優秀な人物で、その知識は文章博士が舌を巻くほどと言われている。学問だけでなく、歌舞音曲に優れ、今上が八坂社へ寄進した際には、奉納舞の舞手を務めたこともある。定省王もまた、幼い頃より今上に仕えている。共に学問を学び、現在も帝の身辺に仕える侍従を務めているのだ。
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