第05話 薫物

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第05話 薫物

「この黒方(くろほう)は……藤典侍(とうのないしのすけ)殿にゆかりの女房殿か」  公達は、季姫が纏う袿に薫き染められた香りから、その主を推察した。黒方とは薫き物の一種である。薫き物とは、香木や香草を粉にして蜜で練り固めた練り香のことで、それを焚くことで香りを燻らす。使い方としては、主に、仏前に燻らす名香(みょうごう)、室内に燻らす空薫き物(そらたきもの)、そして衣服に焚き染める衣香(えこう)の三通りがあり、使う原料の種類や組み合わせによって、香りが異なり、それぞれ名がつけられている。しかし、同じ原料を使った同じ名の香りでも、その調合は人によって異なるため、作る人によって異なる風情が表れるのだ。  季姫は、少しの逡巡の後、その答えを否定しないことにする。 「そんなところです」 「では、どこから戻るつもりだ。常寧殿か麗景殿を通るのが近いが……常寧殿には太后がいらっしゃるからな……しかし麗景殿は人の気配が少ない。温明殿を通るなら、手間の綾綺殿まで送るが」  公達の言葉に、季姫は一応相手に、こちらを気遣うつもりがあることを知る。温明殿に勤める藤典侍藤原淑子(よしこ)の父は長良で、高子の異母姉だが、二人の仲は決して良好と言えるものではない。だから、藤典侍の女房が、常寧殿を通ることは憚りがあるのだ。かと言って本来、その高子の女房である季姫が、藤典侍達がいる温明殿を通るわけにはいかない。そのため、残る選択肢は一つに絞られる。 「麗景殿から戻ります」 「ほう……一夜の逢瀬をお望みとでも」   季姫の答えに、公達は口の端をあげる。曹司まで送るという男性に対して、人の気がない場所を通ろうというのだから、相手がそう誤解するのも、無理があるとは言えない。しかし公達の口調は、誘われたにしては冷たく、一切の感情が籠もっていない。全く本気でないどころか、麗景殿から戻ると言った季姫の意図を、探る様子さえうかがえる。 「どうしてそうなるのです。人の気配がないからこそ、見回りが必要なのです。それと、例え女房風情といえど、殿方の好みくらいありますから」  季姫は、その公達の疑いに気付かぬ振りを押し通すことにして、あえて、向きになって言い返した。見回りとは、つい口から出た方便であったが、意外なところで役に立った。  しかし、相手の公達も黙ってはいない。 「それはこちらもだ。勝ち気な女性は好ましいが……騒がしいのは苦手だ。それと、ほんの戯れも通じぬような無粋な女性も」  季姫が言い返したことで、公達は、自らの発言の意図を、相手の思い違いに合わせることにしたらしい。季姫は、自身が勘違いを装ったということにに気付かれず、追求を逃れたことに安堵する。 「どういう意味ですか、それは」 「別に、そのままの意味だが。何か問題でもあったか?」 「い、いいえ」 「何だ、つまらぬな」 「つまらなくて結構です。どうせ、戯れ言も解らぬ無粋者ですから」 「きちんと意味が解っておるではないか」  二人が言い合いながらしばらく歩くと、あっと言う間に麗景殿を抜けた。そろそろ、人の気配が濃くなる。季姫は、何だかんだで、ここまで同行してくれた公達に対して、律儀に頭を下げ、これ以上は人目につくからと、一人、自らの曹司へ向かった。 「これは……落葉?この香りは……」  見送る公達の鼻を、季姫の髪から漂う香りが、微かに掠める。その香りに彼は、今し方立ち去った女房――季姫の行く手を見つめると不審げに眉を顰め、呟きを漏らした。 「藤典侍殿の女房、か」  公達が、自身に不審な目を向けていることなど思いも寄らず、季姫は、そのまま曹司に戻った。纏っていた袿を脱ぎ、素早く別の袿を羽織る。 「若狭(わかさ)の袿が役に立ったわ。でも、この黒方が藤典侍様のものとはね……常寧殿で使わなくて、よかった。でも、そうなると若狭って、まさか堀河の辺りに縁とか……」  季姫は、脱いだ袿を丁寧にたたんで葛籠の中に片付けながら、一人呟いた。  後宮に出仕して以来、季姫は時折、時間を見つけては校書殿(きょうしょでん)に通い、古今の書物、主に唐渡りのいわゆる漢籍を読んでいる。校書殿とは、宮中の中で、書物や公文書など、文書を管理、保管する場所であり、文殿(ふみどの)とも言われる。  祖母の元にも父の元にも、それぞれ曽祖父が残したという書籍があり、好んで読んでいた。しかし、さすが宮中の蔵書は、その数も多く質も高く、比べものにならない。読んだことも、見たこともない書物が豊富にあり、季姫は何かと足繁く、校書殿に通っている。そもそも、後宮への出仕を決めた理由の一つが、多くの書籍がある、ということであった。そのため出仕前から、父とその主である明子を通して、高子からも許しをもらっている。  その校書殿で知り合ったのが、若狭である。季姫が、後宮で得た初めての友人と呼べる存在であった。同じ位の年頃ながら、季姫より知識が豊富な若狭は、しかしそれを驕ることなく、気さくで話しやすい人物であった。その身なりや言動から、若狭もまた、後宮に仕える女房のようであった。公式な役職のある女官かもしれないが、身分の上では、さほど違わないように思われた。  あるとき季姫は、袿を棚に引っかけて破いてしまった。その場で動けなくなってしまった季姫のために、若狭は、急いで自分の袿を取りに戻り、貸してくれたのだ。  季姫は、袿を返そうとしたものの、そこで初めて、若狭の身元を知らないことに気付いた。次に会った時にでも確認しようと思っているものの、その機会がなく袿を借りたままになっている。今回、申し訳ないと思いながらも、万が一を考えて、その袿を、もう一度借りてしまうことにした。 ――あの子なら、大丈夫だよ  檜扇から、少将が現れる。やはり、勝手に戻っていたらしい。どの時点から戻っていたのかわからないが、季姫は、自分がそのことに気付くことができなかった時、つまりは、先程の公達と一緒で、他に気を回す余裕のなかった間だろうと予測する。 「少将様は、若狭の身元に、お心当たりが?」 ――あれだけ、漢籍に詳しい女性は、最近珍しいからね。でも、彼女が身元を季姫に明かしていない以上、僕から言うわけにもいかないよね 「それもそうですね。まさか、藤典侍様ご本人ということもないでしょうから、別にいいです」 ――もし、そうだったら? 「以前、お見かけしたこともありますし、そもそも年齢が合いませんから、大丈夫です。それより、仁寿殿はどうだったんですか」  藤典侍藤原淑子は、高子よりいくつか年長のはずだ。一方の若狭は、季姫と同じ年頃であった。多少の誤差を考えても、同じ人物であるはずがなかった。季姫は、これ以上少将の戯れ言に付き合うつもりはないとばかりに、事件の話をすることにした。
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