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第06話 隠蔽
季姫の言葉に、少将は微かにため息を吐いて苦笑し、口を開いた。
――そうだね、王気の乱れがあったようだけど……あの辺りは、元々王気が強いからね。具体的に何があったかは、わからないな
「何のために、仁寿殿まで行ったんですか」
少将の答えに、季姫はやや呆れた表情を見せる。これでは、何のために仁寿殿まで赴いたのかわからない。挙げ句、季姫はどこぞの公達に見咎められることになったのだ。
――そうは言ってもね……わからないことはわからない。もっとも、これが完全に清められた後だったら、王気の乱れすら、わからなかっただろうね
「その……王気の乱れとは、具体的にはどういったことですか?」
――それは……あまり、大声じゃ言えないんだけど、前に王気の乱れを感じた時は、惟仁(これひと)の譲位の前触れだったね
少将が、やや声を落とす。元々季姫にしか聞こえない声なのだから、その必要はないのだが、話題が話題だけに、慎重になったのだろう。惟仁というのは、先帝である清和帝の諱(いみな)である。
「それじゃあ、今回もまさか……」
――それはどうだろう。以前は、僕がまだ彼女のところにいた頃だし、かなり大きく感じたんだ。でも今回は、現場に行って初めて、痕跡を感じた程度だからね。例の事件の時、季姫は常寧殿に伺候していたよね。その時は、何も感じなかった。実際、現場では乱れがあったとは思うけど
彼女、つまり季姫の祖母の邸は右京二条にある。内裏に近いとはいえ、内裏の中である後宮に比べれば、かなり隔たりがある。その場所で捉えることができたものと、今回、内裏の中であっても殿舎が異なるだけで捉えることができなかったものとでは、その大きさの違いは明白である。
「それだけ、乱れが小さかったということですか」
――そうだね。まだ、先のことはわからないけどね。惟仁の時も、内裏では今回のように、小さな乱れが、事前にあったのかもしれないし
「確かに、そうですね。それと、少将様。仁寿殿にいらしたお二人ですが……」
――ああ、あの二人ね。あの二人が、どうしたの?
「まさかとは思いますが、お年の若い御方は、今回の渦中にあらせられる御方では……」
――鋭いね。でも季姫は、姿を見ていないよね。どうして、そう思ったの?
「あの後、もうお一人の方に見つかってしまいました」
――うん。ちょうど僕が戻ろうとした時だったよ
「やはり、そうですか。あの方の束帯は、浅緋でした。つまり五位のお方です。お二人の会話から、その五位の方よりも、お年の若い御方の身分は上だと思いました。五位の方より身分が上で、お年の若い御方となれば、今上以外、いらっしゃいません」
――さすが、季姫。それじゃあ、もう一人のことは、どう見る?
「もし、今回の事件の関係者であれば、既に王侍従殿の名が挙がっています。王侍従殿は、ちょうど五位のはず。しかしそうなると、王侍従殿は、事件が起こってから、仁寿殿に伺候したのではなく、その一部始終を見ていたことになります」
――確かに……あの二人の会話は、間違いなく、現場にいた人間のものだったね
季姫には、最初、二人が話していた内容が、事件の時のものなのか、その前に起こったことなのか、わからなかった。しかしあの二人は、益の『最期の言葉』を気にしており、二人共がそれを承知している様子であった。だからあの二人は、まさに事件の時、現場にいたということになる。
「だから、五位のお方が王侍従殿だとすれば、王侍従殿の近衛達への説明は、嘘ということになります。それに、他にももう一人、誰かいたような内容でした。少なくとも、関係者がもう一人いる可能性があります。でも、それが誰なのか……近衛達が知っていればいいのですけど……」
この事件には、何か裏がある、そう確信した季姫は、しかし言葉を詰まらせる。
――もし、定省が近衛達に嘘を吐いていたら、近衛達が駆け付けた時、そのもう一人は、既にその場にいなかった可能性もあるね
「そうです。あのお二人は、何を、誰を隠そうとしているのか……」
先の見えない、濃い霧の中にいるような心地がして、季姫は途方にくれる。この宮中に、一体何人の人間がいるというのか。その中から、ろくな手がかりもないまま、誰かわからない一人を探し出さないといけないのだ。
その季姫に、少将が助け船を出す。
――僕の経験から、一つ、気付いたことがあるんだ。それを、調べてみない?
「少将様の経験、ですか」
季姫は、疑わしげな目で少将を見る。季姫の知るところでは、少将は祖母に言い寄る以外、何もしていないのだ。しかし少将の言う「経験」とは、その生前のことであった。
――これでも、内裏にいたからね。今回の事件、今のところ、貞明と定省と源益の三人が当事者ってことになってるけど、他に、貞明の近くにいた可能性のある人物がいないかな?
「御前に、伺候していたってことですか。そんなの、わかるわけないじゃないですか」
だから困っているのだ。さすがに、今上の近くに伺候できる人間は限られている。それでも、一人一人調べるには人数が多いし、高子の名を使えない以上、季姫が気軽に会える相手ばかりではない。
――誰かって、個人の特定は、今の段階では僕にもできないよ。でも、ほら、『帝の近くにいることが仕事』の人物が、出てきていない
「御前に伺候する仕事……侍従か蔵人(くろうど)ですよね。侍従は王侍従殿がいらしたから……蔵人ですね」
――当たり。そのとき、蔵人が伺候していたのかどうか、いたとしたら、それは誰なのか、調べてみる価値はあると思うよ
少将の言葉に、季姫は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、少将様。まずは、蔵人を調べてみて、それから……お祖母様に相談してみましょうか」
――季姫……君って子は、なんて優しいんだ。ありがとう
祖母を訪ねるという季姫に、少将はその表情を崩しながら、抱きつこうとする。季姫は少将の突進を躱して、釘を刺した。
「あくまで、事件の相談ですから。勘違いしないでください」
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