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第08話 非識
身分を明かすわけにはいかない季姫は、相手の心証を損なわないよう、言葉を選び、笑顔を浮かべて誘いを断る。
「そんなことはねえけど……仕方ねえか。俺はここの雑色で、秦以葛(はたのもちかど)って言うんだ。見かけたら、声くらい掛けてくれよな」
雑色は、主のために身元を明かせないという季姫の事情を汲み、自ら名乗るだけに留めてくれた。その様子に季姫は、以葛の人の良さを感じ取り、一応、名乗ることにする。
「そうするわ。そうね、私のことは、井都女(いつめ)とでも呼んで」
「井都女、か。その名前で女嬬を探しても、見つからなさそうだな」
その名が、仮のものであることを察した以葛は、心底、残念そうに呟いた。その以葛に、季姫は『井都女』がまた、以葛に会う意思があるのだと示す。
「でも、貴方が『真名が読める女嬬の井都女』を探していると聞けば、私にはわかるわ。また、知りたいことがあったらよろしくね」
その言葉が、相手に過度の期待と誤解を与えかねないという危険を承知しながらも、季姫は、事件が、完全に解決するまで、蔵人所との繋がりを断ち切るわけにはいかない事情を優先した。
それに、六位蔵人に欠員が出たとき、他に候補者がいなければ、蔵人所の雑色が昇進する可能性がなくもない。だから実際の季姫の身分を考えれば、全くの身分違いとは言い切れない相手ではあるのだ。もし以葛が、たまたま知り合った女嬬を、気軽な遊び相手として誘っているのではなく、本気で誠意を見せると言うのなら、好ましい相手ではあった。
「おう、任せときな」
以葛は、季姫の思惑には、全く気付かない様子で胸を張って答え、職務に戻っていった。
「藤非職(とうのひしき)じゃと……高藤(たかふじ)殿の子ではないか。名は、なんと言ったかの……確か、そうじゃ、定国(さだくに)じゃ。して、その定国が、御前におったというのか」
季姫が、以葛から見せられた名を告げると、高子は目を見開いた。昨日、今上に近侍しているはずの蔵人は、藤原定国。正確には、蔵人ではなく非蔵人であった。非蔵人とは、蔵人の見習いであり、正式な蔵人ではないが、同様の職務を務めるという意味で、非蔵人という。蔵人に欠員が出た際、雑色よりも優先してその職に就くことになる。蔵人のことを職事ともいい、その職事に非ずとして、非職とも言われる。
定国は、兵部大輔藤原高藤の子である。高藤の父良門(よしかど)は、高子の父藤原長良(ながら)の母違いの弟に当たるため、高藤は高子の従兄、定国は高子から見て従甥ということになる。従二位権中納言まで進んだ長良や、従一位摂政太政大臣まで進み、死後正一位を贈られた良房(よしふさ)、正二位右大臣に進み、死後に同じく正一位を贈られた良相(よしみ)といった兄弟達に比べ、良門は正六位上内舎人のまま若くして亡くなっている。そのため高藤は、他の従兄弟達に比べ、出世が遅れている。だからといって、婚姻によってその差を埋めようとするつもりもなく、鷹狩の折に出会った郡司の娘を、正式に北の方として邸に迎えている。定国は、その郡司の娘宮道列子(みやじのつらこ)を母として生まれている。日頃から、従兄弟達との官位の差を一向に気にする様子はなく、野心の無い清しい人物であるというのが、専らの評判である。
季姫は、自分で詳しく調べるより前に、このまま進めてもいいのか、伺いを立てる意味も含めて三条に伝えたところ、高子と対面することになったのだ。
「お姿を拝見した者がいるわけではありません。ただ……昨日は御前に伺候する当番でいらっしゃって、朝は、蔵人所にもおいでになられたということです」
季姫は、慎重に言葉を選び、以葛が集めてくれた情報を伝える。
「ふむ……事件の折、伺候していたかもしれぬし、御用で、その場におらなんだかもしれぬのう。いずれにしても、王侍従の話に、その名が出てこぬのもおかしな話じゃ」
「左様にございます。ただ、もしその場にいらっしゃらなかったとしても、お側を離れる際に、何かお気づきになられた点などないか、お聞きしたく存じます」
「よかろう。しかし私が動くわけにもいかぬな……三条、東三条殿に、誰ぞよい知り合いはおらぬか」
「幸い、母方の従姉が、北の方様にお仕えしております。名を、弁の君と申します」
「それはよい。ならば、差配は三条に任せる故、よしなに」
東三条殿は、左京三条三坊一町にある、高藤の邸である。
後世、藤原北家嫡流の本邸として最重要視されることになり、その伝領を巡って、親子兄弟間で争いにまでなる上、更に後の世には、寝殿造りの代表格とも表されることになる邸宅であるが、この頃は、あくまで藤原北家の持つ、諸邸宅の一つに過ぎない。
東三条殿は、元は高藤の伯父にあたる良房が建てたものであるが、早くに父良門を亡くした甥の高藤に譲られたのだ。
藤原北家の最高位にあり、良房の甥で養子である、従一位太政大臣基経は、その西側に位置し、二町という倍の広さを持つ閑院第と、更にその西側の堀河殿を主に使用しており、さらには、一条にある小一条第や枇杷殿などといった邸宅を所有している。
東三条殿は、現在の藤原北家にとって、それほど重要な邸ではない。
ただ、季姫が、高子の命で直接定国を訪ねるとなれば、かなり、目立ってしまうことになる。しかし、三条の指示でそこに仕える女房を訪ねるのならば、さほど、珍しいことではない。季姫が訪ねるのはあくまで弁の君であり、その場に偶然、定国が現れる分には、問題ない。その辺りも含めて、高子は三条に差配するように言っているのだ。
季姫は、二人のやりとりを察して、高子に礼を述べると同時に、三条にも手間を掛けさせることを詫びた。
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