第09話 小町

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第09話 小町

 少将が、物怪となってまで恋い慕う季姫の祖母の住まいは、右京二条二坊四町にあった。かつては、質素ながらも、丁寧に手入れされた、趣味の良い庭が美しいと評判の邸であった。しかし今では、自然に生え茂るに任せた庭の草木が、門から邸までの視界を隠すほど。ただ、それらをかき分けた先の邸だけは、手入れが行き届いている。  邸の主は、齢五十九を数える小野実子(おののさねこ)。四十年前の宮中に仕えて、その美貌と歌の才を謳われた、小野小町その人である。  ここは元々、小町の父小野篁(たかむら)の邸であった。従三位参議にまで昇った篁は、文人としても名高く、詩文、和歌、書に優れた人物であった。また生前から、井戸を通って地獄に降り、閻魔大王に仕えていたという噂もある。 「ただいま戻りました、お祖母様」 「よう戻ったの、季姫」  季姫は、実の父母を知らない。生まれてすぐ、内教坊―女楽や踏歌を掌る役所―の妓女であった小野麻名子(まなこ)の元に、養女に出された。その麻名子に、後にできた恋人が、現在、季姫の父となっている枝良(えだよし)である。季姫は、麻名子の死後、枝良に引き取られたのだ。  なお、麻名子自身は、父母を早くに亡くしており、伯母に当たる小町が後見人であった。麻名子が季姫を育てるにあたり、小町は正式に麻名子を養女とした。だから小町は、季姫には義祖母に当たる。  里下がりした季姫は、父の邸より前に、小町を訪ねた。 ――小町、ようやく僕も帰ってきたよ、貴女の元に  季姫の持つ檜扇から、少将が飛び出し、小町に抱きつこうとする。小町はそれを、年のわりに俊敏な動きで、さらりと避けた。 「深草殿、昨夜も話したばかりじゃろう」  小町は少将を深草と呼ぶ。本名ではないものの、少将の、一応な自称の名乗りとしては、深草少将(ふかくさのしょうしょう)なのだ。 ――鏡越しでも、貴女に会えるのは嬉しい。でも、こうして直に会うことに比べたら、取るに足らない。ああ、何年振りだろう、こうして会うのは 「この子が宮仕えして以来ゆえ、ほんのふた月前じゃな」 ――ふた月。このふた月、短いようで長かった。一日千秋とはこのことだよ 「全く、大げさなことを……帝であられた頃は、ほんに凜々しくご立派な御方であったというに……」 ――帝としての僕は、魂も既に眠りについているからね。ここにいるのは、小町、貴女を思う心、ただそれだけ 「余計に質(たち)が悪いわ」  小町が冷たく言い放つと、少将は哀しげにうなだれた。  少将の生前、それは三代前の帝、仁明帝(にんみょうてい)である。つまり、今回の事件で関わりのある今上(きんじょう)の曽祖父であり、定省王(さだみのおう)の祖父である。仁明帝には、次代の文徳帝(もんとくてい)を産み後に皇太后となった今上の曽祖母である藤原順子(のぶこ)や、時康(ときやす)親王の生母で定省王の祖母に当たる藤原沢子(さわこ)などの女御(にょうご)達を始め、更衣(こうい)、宮人(くにん)、女嬬(にょじゅ)など、多くの后妃や寵愛した女官達がいた。  その中で唯一、結ばれることのなかった相手が、小町である。  小町には、吉子(きちこ)という年の離れた姉があり、彼女もまた仁明帝の更衣であった。小町が、仁明帝の意に沿わなかった理由の一つは姉への気遣いであるが、それ以上に、美貌と歌で名声を得ていた小町に対して、藤原氏が警戒を見せていた。吉子が亡くなり、いよいよ、小町が寵愛を受けるかと噂になった。そんな折り、ある醜聞が囁かれた。それは、小町の出生に関わるもので、吉子にも関係があった。小町は、吉子とその異母兄良真(よしざね)との間に産まれた不義の子であるというものである。それによって小町は、後宮を追われた。  不本意な形で後宮を去ることになった小町に、仁明帝は、吉子を悼む気持ちと、小町への親愛の証として、自身の形見を贈った。それが、小町のために作らせた檜扇である。  仁明帝が崩御して後、その小町を思う気持ちだけが現世に残ることになる。その思いは、仁明帝が葬られた陵(みささぎ)が深草にあることから、深草少将と名乗り、かつて、自身が小町に与えた檜扇に宿った。季姫の後宮勤めが決まった時、その身を案じた小町は、深草少将に影ながら季姫の力になって欲しいと頼んだのだ。  四十年間通して、初めての小町からの頼みを、少将は、毎夜、小町に会うことを条件に受け入れた。とはいえ、季姫が里下がりできる機会は限られている。そこで小町は、対の鏡を作らせ、一つは自身の邸に置き、もう一つは檜扇と共に季姫に持たせることにした。その鏡を通して、少将は、毎夜わずかな間だけ、小町の元に通うことができるのだ。  しかし、小町が少将のためにしたのはそこまでであった。もうすぐ六十に手の届こうかという今、少将の気持ちを受け入れるのも馬鹿馬鹿しい。そもそも少将は、既に人ではないし、その姿形は、当時十九歳であった小町が後宮を去った時と同じ、三十四歳のままである。恋に忍ぶ姿ということで、帝の装束ではないため、どこからどうみても男盛りの美々しい公達にしか見えない。 ――小町、僕は本気なのに……年を経た貴女は、益々美しい。もちろん、あの頃の貴女も美しかった。若さと才能に溢れて輝くばかりで、眩しいほどだったよ。でも、今の貴女は貴女で、あの頃にはなかった、凜とした美しさがある。益々磨かれた歌の才もまた、僕の心を捉えて離さないよ……  いつの間にか復活した少将は、小町の、白さが目立つようになった長い髪を一房すくい上げ、耳元でその愛を囁き続ける。小町は少将の言葉の全てを無視し、季姫に向き直った。 「それで、季姫は何をしに参ったのじゃ」 小町は季姫の義祖母だが、ここは、現在の季姫の里ではない。だから里下がりした季姫が、自分の里より先に小町の邸を訪ねたのには、それなりに理由がなくてはいけない。 「はい、実は……」  小町の問いに季姫は、内裏で起きた事件と高子からの命令、そしておそらくは、高子がある人物――高子の実兄である基経(もとつね)――には、自身の動きを知られたくないらしいことを説明する。  高子からは他言無用を命じられているが、今の小町は、世俗の権力との関わりがない上に口が堅い。特に季姫が困るようなことはしないという、信頼があった。 「ふうん、それで太后殿は、堀河殿に知られず、真相を知りたいわけか」  基経は、その邸から堀河殿と呼ばれている。 「おそらくは……」 「となれば……万が一にも今上が関わっておられれば、もみ消すおつもりかもしれぬな」  小町の推測に、季姫は驚きを覚える。高子は、あくまで母として今上を案じているだけだと考えていたのだ。しかし、もし小町の推測が正しいとすれば、今後の季姫の働き次第では、却って、事件の真相が闇に葬られてしまうことになる。  季姫は今後、自分の動きに、一層の慎重さが求められることを実感する。 「太后様が、ですか」 「そりゃそうじゃ。誰しも我が子はかわいいもの。それが、自らの権力の源となれば、何があっても守り抜こうとするじゃろう。なんと言おうと、太后殿も藤原北家の御方には違いない。あの家のやり方は、いやと言うほど見てきたでの。しかも、何やら最近、堀河の辺りががきな臭いというしのう」  小町が、心底嫌そうな表情をする。季姫は、多少の居心地の悪さと複雑な感情を抱きながら、言葉を選んで答える。高子は、季姫の現在の主なのだ。 「太后様との間で、いろいろあるとは聞いておりますが……」 「堀河殿は、再三の今上の要請にも関わらず、出仕しておられぬのだろう。此度のことに、万が一今上が関わっておられれば、いい機会……いや、ちと喋りすぎたかの」  そう言って小町は口を閉ざした。
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