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「うのちゃん、俺ちょっと仕事するからね」
「どーぞ」
やわらかなオーガニックコットンのカットソーに、グレーのスウェットパンツというラフな格好でパソコンに向かっているのは、若手芸人のトップといっても過言ではない『虹色キャラメル』のツッコミ、中島真杜。そしてベッドの上で、黄色いサザナミインコと戯れているのが、ボケの雨野雫だ。
雫のほうは、だぼっとした黒のトレーナーにスパッツ姿で、小柄な体格も相まってまるで女の子のようにしか見えない。
二人は月曜から木曜までは、漫才、音楽のツアーのため全国を飛び回り、金曜はお昼の情報バラエティ番組『昼パラダイス』にレギュラー出演している。今日は昼パラ放送のあと、雑誌の取材を何本かこなし、帰宅したのはつい一時間前。
その一時間の間に雫は風呂に入り、サザナミインコ『檸檬』の世話をし、現在ベッドでごろごろ中。一方の真杜は、一時間の間に洗濯と夕食の下ごしらえを済まし、現在パソコンに向かってお仕事中。
「なんの仕事?」
「んー……ネタの直し」
それは今か? 今やるべきことか? と思うが、それを言ったところで無駄だということを、雫は百も億も承知している。だから、黙って見守っている。中島真杜という男は、仕事のやめ時がわからないのだ。自分が疲れていることさえ気がつかないので、雫は真杜には内緒でこっそりと見守ることを常としている。
カタカタとキーボードを打ち、マグカップに手を伸ばす。一口飲んだかと思うと、真杜はやおら立ち上がりキッチンへと向かった。
戻ってきた真杜の手には、角砂糖の袋。パソコンの前に座り直し、角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ……。
「なかしま、ストップ」
「なに?」
「なにじゃねぇ。おまえ、もう仕事すんな」
「もうちょっとだから」
聞き入れない真杜に、雫はベッドを降りキーボードの上に檸檬をちょこんと乗せる。
「あ……檸檬ちゃん、乗せるの反則でしょうよ」
檸檬はキーボードの温度が気持ちいいのか、乗せるとまるくなって動かなくなるのだ。雫は、それをわかっていて、わざとやっている。そして、真杜が無理やり檸檬を退かさないことも、雫は知っている。
「おまえ、疲れてんだよ。だから、もう今日はお仕事禁止」
「別に疲れてないよ」
「砂糖。おまえ、いつもはスティックのやつ使うだろ? このフランス製のちょっといい角砂糖使う時は、疲れてる時って決まってんだよ。しかも、みっつも入れたし」
名探偵よろしく雫にそう指摘され、真杜は首を傾げる。確かに普段はスティックの砂糖を使っている。だけど、今フランス製の角砂糖を使ったのは、疲れているからではなく、自分へのちょっとしたご褒美なのだ。真杜はそう言おうとして、やめる。雫に言い負かされるのは癪に障るが、雫が自分のことをよく見ていることのほうが『面白い』と思ったからだ。
「みっつなの?」
「うん、みっつ。ふたつまではギリセーフだけど、みっついったら、おまえ疲れてる」
「それは知らなかった」
「だろ? おまえ、頭いいくせに自分のことは、なんもわかってねぇから」
ドヤ顔を決める雫に、真杜は笑いしか沸いてこない。
「じゃあ、よっつだったらどうなるの?」
「病院行きだな」
「そうなの? じゃあ、危なかったね」
「俺がとめなきゃ、おまえ今ごろ救急車の中だぞ」
「うのちゃんは疲れてる時、ミルク多めに入れるよね。普段はブラックだけど」
今度は逆に指摘を返され、雫が首を傾げる番だった。言われてみればそんな気もするし、そうじゃない気もする。要するにふたりとも、相手のことはよくわかっていても、自分のことには無頓着なのだ。
「多めってどんくらい?」
「多めは多めだよ」
「いやいや、俺は個数で言ったんだから、おまえもちゃんと量を示せよ」
「使いきりの個包装のやつなら、ふたつ。牛乳の時はミルクティーくらいの色」
「……ふーん」
雫は納得のいかない顔をしているが、真杜は知っている。時おり、マネージャーの古原が差し出すコーヒーにミルクが入っていない時、雫は無言で物言いたげに古原を見あげるのだ。ミルク入ってませんけど? と、言葉を持たない動物のように、古原を見あげる様がかわいくて、真杜はそれをよく覚えている。
どうして無言で古原を責めるのかには、訳がある。いつもは真杜が勝手に入れているからだ。疲れてるなと感じた時、真杜は聞きもしないでミルクを入れ、雫は黙ってそれを飲んでいる。だから雫は、疲れている時にミルクが入っていないと、その時だけ気がつく。
「ところで、うのちゃん」
「なんだよ」
「俺、夕食作っても?」
「は? なに言ってんの。おまえ、お疲れなんだからダメに決まってんだろ」
「えー……じゃあ、俺なにすればいいわけ」
「ごろごろ」
「なに、その自堕落な響き」
「一時間ごろごろしろ」
そう言って手本を見せるかのごとく、もそもそとベッドに這いのぼる雫を見ながら、真杜は雫に気付かれないようにそっと角砂糖をひとつ、口に放り込んだ。
「なんか、すげえ甘い匂いすんだけど」
真杜から漂う甘い匂い。柔軟剤でも香水でもない、ただただ甘ったるい匂いがする。
「なんだと思う? 正解したら今日はいいことあるよ」
「なんだ、そのテキトーな占い」
正解もなにも、甘い匂いは喋る真杜の口から漂っている。
「角砂糖食うとか、どんだけ疲れてんだよ」
「あ、やっぱわかった?」
「わかるよ、あほか」
悪態をつきながらも雫の身体はどんどん小さくまるまり、真杜の胸にすっぽりおさまろうと躍起になっている。
「寝ようとしてる?」
「してる」
「ねえ、角砂糖よっつ目だよ?」
「……みっつはコーヒーに溶けて、おまえ飲んでないから、それいっこ目」
「えー……急に正論やめて。よっつ目としてカウントしなよ」
よっつ目としてカウントした場合、真杜がなにを言ってくるかなんて、雫は聞かずともわかっている。のらりくらりとゲームを仕掛けてくるこの男は、疲れていても狡猾で計算高いのだ。
「しない。だって、それよっつ目認定したら……おまえ、面倒なこと言ってくるに決まってるし。つうか、正解したじゃん俺。いいことって、あ……」
なにかに気付き、しまったと舌を打つ雫を、真杜が笑いながら見ている。巧妙に仕掛けられたゲームは二重の罠だったのだ。
「いいことあるよ、もちろん」
「っ、疲れてない! おまえは疲れてなかった」
「なに、そのあがき。今のは甘い匂いの正体はなんでしょうゲームだから、疲れてるとか疲れてないは関係ないんだよ」
「ずる……つうか、どうせ、おまえにとってのいいことだろ」
「なんで? うのちゃん、俺とキスしたくないの?」
「したいとかしたくないとかじゃなくて! なんで、おまえはそうやって、んっ」
甘ったるい砂糖の匂いが、雫のくちびるを襲ってくる。溶けた砂糖は真杜の舌に住み着いたままで、雫は、キスをしているのか、砂糖を食べているのか、わからなくなっていく。
そうして真杜は言うのだ。
「あの角砂糖は、俺にとってご褒美だから、うのちゃんにも分けてあげたんだよ」
罠は三重だった――。
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