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助手席
「ネットで予約していた佐伯と申します」
「あー、えっと11時にご予約の佐伯様ですね。 どうぞお掛けになってください」
席につくと店内を見渡しつつ、ガソリンや工場独特の埃ぽい匂いに心地よさすら感じた。視線を手元で止めると、握りしめるキーケースに言いようのない思いを馳せる。
「それでは車検証をお願いします」
「あ、はい」
「あとキーもいただけますか。 お車移動しますね」
「はい」
バッグの中から取り出した書類と握りしめていたキーケースから車のキーを外して手渡す。まだ別れの時がきたわけではないのに、心なしか寂しい感情が生まれた。
「えーと、初年度は……」
「三年前です。 支払いは済んでますので」
「え、この車種だと本体価格結構しますよね。 まだお若いのに」
「貯金があったので」
転職を決意したとき、手放すのならまずは車だと決めていた。
この車を購入する時に思い描いた女との未来は、必死に全力を尽くしたけれど無残にも途絶えた。
あと一押し、なんて思ってた自分が恥ずかしい。
人の気持ちを動かすことは容易じゃなかった。
ガラス越しに見える自分の車が動き出し、目は追い続けた。
いまだ助手席に残る彼女ごと引き取ってもらえれば、いくらだって構わない。とにかく早く見えないところへ消し去ってほしい。
「あ、すみません。 電話出ていいですか」
「どうぞ」
追い続けた彼女は不倫相手との継続を選んだ。
助けたかった。俺にしてほしかった。どうして俺じゃない。
『もしもー 颯太くん、あなたどこにいんのよ』
「亮、悪い。今車の査定にきてる」
『えっ、あの車も売っちゃうのかよ』
「……」
『まあ、元気出せって。 颯ちゃんには俺がいんだろー』
「うん、亮がいてくれてよかったよ」
俺が抱えている事情を知ってる唯一の亮には、感謝してもしきれない。
躊躇して決断できない俺の手を引っ張って、誤った道を進む彼女を一緒に正しい道へ連れていこうと助けてくれた。
あとから聞いた話。
『どれだけ、人の気持ち踏みにじってんの。 お前は幸せになる資格なんてない』
俺のいないところで亮が彼女に言った言葉は、俺の胸を締め付けた。
あの社長……不倫相手のいる会社、そして美緒のいる会社に居続けられる強靭な心は持ち合わせていない。逃げるように退社した俺は間違っていたのだろうか。
まだまだ弱気な俺は、亮の励ましがあってこそなんとか新しい会社で頑張っていられる。
「終わったらすぐ帰るから」
『じゃ、そこら辺のカフェにでも入って待ってるわ』
「うん 待ってて。 一緒に昼ご飯食べよ」
『なあ、颯太』
「うん?」
『うん 俺、お前好きだわ』
「は い?』
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