南洲翁一葉之キ

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 西郷隆盛と云えば、義務教育を修了した者のうちに、その名を知らぬ人は無いと断言して良いだろう。  しかし、その肖像については、すでに写真機(カメラ)の普及しつつある時代であったにも関わらず、ただ一葉の写真も遺されていない。  強い意志の現れる太い眉に、爛と輝く丸い(まなこ)。発する言葉に重みを加えたであろう厚い唇や、力士にも似た恰幅の良い佇まいなどは、実弟西郷従道と従弟大山巌の相貌から、西郷隆盛に相似(あいに)たる部分を描き出し、掛け合わせたモンタージュに過ぎないのである。  全く、噴飯ものの俗言――俗言にも満たない、世迷い言と片すべき妄説と呼ぶべきだろう――において、西郷はまだ若かりし日、東目(ひがしめ)追放の際、その道中に刺客の凶刃に斃れた。あるいは僧月照と竜ヶ水沖に入水した時、月照と共に不帰の人となった、というものがある。それでは史実の辻褄が合わないことになるが、そこに歴史の必然力とやらが働き、西郷は日本(ひのもと)に新時代を切り開く神霊として第二の生を享けたのだと云う。その使命を果たすべく奔走し、西南の役において役目を終えて、泉下へ還ったとか、ナントカ。西郷は己の、人ならざる存在であることを自覚していたため、写真機の眼を(おそ)れ、写真にその姿を遺すことを(はばか)ったと云うのである。  人ならざる存在は、鏡や写真に尋常な姿を表せないから、などとモットモラシイ云い訳が附いたりするが、後世に姿を遺せないと自覚していた人物が、歴史の表舞台で大立ち回りを演じたり、私的な書状ばかりか、公的な文書まで発給していたり、二人の妻との間に五人の子供をもうけていたり、とてもとても説得力があるとは思えない話である。  さて、西郷にまつわる、これもまた信憑性が低い話であるが、実は西郷の姿を写した写真が数葉、存在していたと云うのだ。  そう語ってくれたのは、戦前戦中と内務省に勤めていた山下(なにがし)という胥吏(しょり)(下級役人)である。山下氏は終戦時、内務省の裏庭で、連合国の目に晒すわけにはいかない、機密文書の数々を烏有に帰(焼却処分)するのに携わったと云うのである。  山下氏はその処分された数々の文書の中に、西郷隆盛の姿を収めた写真を見たと、わたしに語ったのだ。  もっとも、残念ながら肝心の写真は現存しないと云う。  処分に際しては、処分するべき機密・重要文書の中に、資料庫から引っ張り出してきた、さほど重要性の高くない大量の書類や、チリ紙置き場から掻き集めてきた雑紙を折り混ぜて――もとい、重要性の低い書類や雑紙の中に機密・重要文書を紛れ込ませた状態で、一胥吏に過ぎない山下氏には、どれが重要で、どれがそうでないかの判別が出来ようはずもなかった。しかもそれらが持ち出されることの無いよう、内務省の高級吏僚と特別高等警察官が、鋭い眼差しで監視に立っていたそうだ。特別高等警察官と云うと、あの悪名高い特高警察というヤツで、少しでも作業に遅滞を見ると、腰に提げたピストルに手をやりつつ怒声を飛ばしてきたと云う。  そういうわけなので、山下氏が西郷隆盛の写真を見たのは数秒、長く考えても十数秒のことで、仔細を凝然(じっくり)(あらた)めたわけではない。また、終戦から随分と長いこと時間も経ってしまっているため、件の写真に関する情報は、山下氏の中で、あるいは風化し、あるいは風化部分を補完された状態の記憶に依拠することとなる。  前置きが長引いたが、山下氏が見たという写真の証言に移ろう。  山下氏が焚き火のに投げ込もうとした罫紙の束から、ザラザラっと数葉の写真と、綴じられていなかった覚書(おぼえがき)のような紙片がこぼれ落ちたのだと云う。  それは、全裸の男性の遺体写真だった。  なぜ一瞥して遺体と判ったかと云うと、首と胴とが繋がっていなかったからだ。  仰向け大の字に寝かされた体の、やや右肩辺りに頭部が置かれていたと云う。腹は真一文字に切り裂かれ、前腕や下半身は血と臓物で黒々と(当然、当時は白黒写真しかなかったので、濃色は黒く表される)染まっていた。  切断された頭部は、遺体の首元から少しずらして、左肩辺りに置かれていたと云う。切断面を下にすれば当然据わりが良さそうなものだが、後頭部に石か土塊(つちくれ)かで枕が噛ませてあったのか、顔は正面を向いていた。酷く(やつ)れてはいたが、眠っているような安らかな死に顔だったそうだ。  そして、陰嚢が不自然なほどに大きかったと云う。これは、西郷が象皮症に罹患していたことと符合する。象皮症によって西郷の陰嚢は、人頭大に肥大化していたとされる。西南の役の後、頭部の無い遺体を西郷隆盛その人のものだと決定づけたのは、その巨大な陰嚢だったというのは、有名な話である。  しかし、山下氏はその時点で写真の遺体が、西郷隆盛の姿であるとは思わなかったそうだ。確かに、太く濃い眉は特徴的だったが、白黒写真でも認識できるほどに、頭髪・眉等に白い毛が混じり、全体的に淡い灰色に見えたと云う。世に伝えられる西郷隆盛の姿は、冒頭にも述べた通り、力士のように恰幅の良い肥満体であるが、写真の遺体は皮の(たる)んだ老人のように見えたと語った。写真と一緒に落ちた紙片の書き込みに「西南戰役」の文字が見えたことから、山下氏は当初、西南の役で敗死した、一老士族の遺体写真と思ったそうである。  しかし、写真の裏に「西郷南洲公御遺軆」の文字を見たことで、強い衝撃を受けたのだと云う。  すぐに特高警察の怒鳴り声が来たために、山下氏は大慌てでそれらの写真や紙片を焚き火に投げ込んだそうだが、一瞬間だったとはいえ、斬首遺体に添えられていた紙片に、「内務卿」「公開不許可」等の書き付けがあったことが、墨痕も鮮やかに、記憶に焼き付いていると云う。  その日だけでも、山下氏は何千枚の書類を()いたか見当もつかないそうだが、件の写真はその後何年も心に引っ掛かり続けたと語る。日本史にその勇名を刻みながら、一葉の写真も遺さなかった豪傑の、その唯一かもしれない写真を、自分の手で焼いてしまった。それがたとえ命令されたことだったとしても、一個人の胸裡には、あまりに大きな後悔として残ったのである。  山下氏は戦後、件の写真にもまつわるであろう事柄を、折を見ては調べたと語る。  添えられていた覚書の「内務卿」とは、おそらく――九分九厘は大久保利通を指すものだろう。ここで改めて説明するまでもなく、大久保は西郷と並ぶ明治維新を成し遂げた英傑であるが、その性格は一種残忍、嗜虐性を孕んでいたと云われる。佐賀の乱を起こした江藤新平に対しての仕打ちは、まさにその象徴と云えよう。政敵であり、性格的な反りも合わなかった江藤が死刑を宣告されると大久保は狂喜し、梟首(きょうしゅ)されるに及んでは、その曝首(さらしくび)の写真を大量に焼き増しさせ、内務省中に貼り付けて回ったとの逸話がある。  山下氏は、おそらく件の写真の撮影者は、大久保の歓心を買うという下心があったのではないかと推察する。身元を(あらた)める目的もあったのだろうが、わざわざ遺体を裸に剥いて、その顔も瞭然(はっきり)と判るような状態で写真を撮ったのは、故人を辱める目的があったのだろうと云う。  しかし、撮影者の思惑は大きく外れたであろう。  西郷の死を知った大久保は大いに悲嘆に暮れ、その偉業を後世に知らしめるべく、自ら西郷の伝記を執筆するほどだった。朝敵に身を(やつ)したとはいえ、かけがえのない盟友の無残な写真が世に出回ることを、大久保は許さなかったのだろう。  撮影者がどのような処遇を受けたかを知る由も無いが、写真は偶然山下氏の目に触れるまで内務省の奥深くに秘蔵され、そして速やかに焼滅されるに至ったのである。  だが、件の写真にも矛盾点は残る。  山下氏が見た写真の遺体には、切腹した様子が見て取れたと云うが、当時の西郷の検屍報告には、切腹の痕跡は無かったとされる。当時からまことしやかに語られてきた風聞の一つにも、西郷は朝敵としての立場を受け入れ、従容と首を差し出したと云われる。  切腹とは、自身の死をもって武士としての面目・誇りを維持する行為である。それは朝敵として一切の申し開きをせず、逆賊として斬首による最期を受け入れたとされる西郷の姿勢とは、(いささ)かの齟齬(そご)が生じるのである。  しかしながら、肝心要となる写真自体が現存しないことから、全ての議論は空転を続けるしかない。  反乱士族側に、西郷とは別に、象皮症により肥大化した陰嚢を持った人物がいた可能性は、極めて低いながらも完全に排除することはできないのである。  最後に山下氏は、やや自嘲気味に語ってくれた。  狸の金玉は八畳敷もある巨大なものであると唄われている。自身が見たあの写真の遺体も、非常に大きな金玉を下げていた。自分が見ていたものは全て狸に化かされていた幻で、あの写真も(はた)から見れば、ただの木の葉の一枚に過ぎなかったのではないか、と。 (了)
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