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それから35分ぐらい経った。ガチャ、ガチャガチャ、カチャ。玄関の戸の開く音がした。
「咲子ちゃん、遅かったじゃない。道そんなに混んでたの?」
義理の姉は、どうやら玄関まで出迎えに行った様だ。麻希はついさっき、来客だと言われたので出迎えるのは遠慮した。来客と名のつくものが出迎えるのは、あまりに不格好である。
義理の姉が玄関に着くと即座に、
「うーんと、君、澤田だよね。えっと、私呼びましたっけ。」
という声が聞こえてきた。
麻希は、澤田という名の人には身に覚えがない。玄関で何が起きているのかもさしてよく知らなかった。気になりはしたが、駆けつけるには及ばなかった。
カチャ。また玄関の戸が開いた音がした。
「うわぁ、お義姉さん。どうしたんですか。すごい顔してますよ。」
「どうしたも何も、咲子ちゃんだと思って戸を開けたのに、澤田だったんだもん。そりゃあびっくりするでしょうよ。」
どうやら、咲子が帰ってきたようだ。
「すみません。驚かせてしまったみたいで。咲子さんが運転していたもので、駐車するから先に入って待っててと。」
低い声だから、多分澤田というのは、男の名なのだろう。なので咲子が澤田という男を連れてきたのだと把握した。
「取り敢えず、お邪魔します。」
「入って、入って。」
程なくして、3人がこの部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん、変わんないね。龍二さんとは最近どうなの?」
龍二というのは、三島龍二のことで、前述した通り別れた彼氏のことだ。
「なんで黙り込むのよ。まあ、いいわ。紹介するね、こちら澤田守さん。私の彼氏。」
澤田さんはここでペコっと頭を下げた。
「結婚を前提に、お付き合いをされているんですか?この、咲子と。」
意地らしい質問をしてしまった。
「お姉ちゃん、私のこといつまで子供扱いしてるのよ。結婚を前提にしないお付き合いなんて、成人してまでしないわよ。逆にお姉ちゃんはするの?その歳で結婚を前提としないお付き合い。」
綺麗に言い負かされることになってしまった。
「そうね、咲子ももう立派な歳だものね。ところで、澤田さんは何をされている方なの?」
「僕は、小さいですけど温室の植物園を営んでいます。咲子さんとは、そのご縁で。」
咲子は、植物の研究をしている。だから、2人はきっと植物の話で盛り上がるのだろう、と思った。植物については、常識の範囲内しか知らないので、その手の話には首を突っ込めない。
「色んな研究論文について説明してくれて、植物園の方のアドバイスも沢山くれるので、助かってます。」
と、まあやはり予想通りの言葉も耳に入ってきた。
「でもさ、咲子ちゃんも趣味の合う方と巡り合えて良かったわね。お義母さんもホッとしてたもの。」
お義姉さんの言葉に2人は滅相にもございませんというように手を2、3回ブンブンと横に振っていた。2人は息ピッタリである。というか、今の言葉は否定すべきではないと感じたのは、麻希だけだろうか。
「でも、全くこっちに来ないお姉ちゃんのことだから、故郷の変わりようにびっくりしたんじゃない?」
咲子には、悪気がないことは分かっているのだが、この何気ない一言が心にチクチクと深くささる。
空気が少し重くなった。この場に大人が4人といながらも、誰も言葉を発さない。暫しの沈黙の時が右から左へと流れていく。
そのうちに鳩時計の鳩の戸がカタカタと開いた。中から出てきた鳩が、少し申し訳無さそうに、あまり元気のない声でポッポ、ポッポと鳴った。この家には、麻希がまだ暮らしていた頃の鳩時計が存在していたらしい。思うに、麻希が住んでいた時と変わらない家具はそれだけだろう。
「あ、もうこんな時間。大変だわ。三智の迎えに行って来ないと。」
「お義姉さん、行ってください。私達三人で話しているので。」
あの小さかった咲子が随分と成長したなあと思った。そして、他人事なれど、だから麻希もこんなに歳をとるわけだと感じた。そんなことを考える時分にはあまりいい心地はしない。
お義姉さんは、2人を手招きしてこしょこしょと何かを伝えた。2人は、首を縦に2度程振っていた。何を言われているのかは定かではないが、そう目の前でコソコソされると、少し不安になってしまう。
何か悪いことでもしたかしら。なんて思うのだが、全くそれに値するような行為に心当たりはない。
「そうね、じゃあ行ってくるわ。今日は私が御馳走するから、出前のお寿司でもとりましょうか。帰りに、スーパーに寄って、飲み物とか買って来るわね。」
そういうと、お義姉さんは、手近に置いてあった皮の鞄を取って立ち上がった。どこかで見たことのあるような鞄だ。
「あの、買い物の荷物、きっと多いでしょうから、僕がお手伝いします。」
澤田さんも立ち上がった。
「でも、お客さんにそんなことさせられないわ。」
澤田さんの足元、スリッパを指差していた。どうやら、来客だという弄りは、私以外の人にもなされているようだ。
すると、澤田さんはスリッパを脱いで、自分の鞄の中にあったスリッパを取り出し足にはめた。
「これでもう、お客さんではありません。ついていきますね。」
多少強引な手なれど、義理の姉に知恵勝ちしていた。
澤田さんは頭脳派なんだろうな、と思った。そして、気の優しい人であるのだろう。考えてみれば、ずっと咲子に男は溢れんばかりに付き纏っていたのだが、そんな人に巡り逢えた咲子が、今また少々羨ましくなった。
「そうね、じゃあお願いしようかしら。血の繋がりのない私達抜きで、血の繋がった2人で話したいこともあるだろうし。」
血の繋がりを引き合いに出しているところが少し引っかかったのだが、2人きりで話したいことはないでもない。
「任せて大丈夫ですか?お金は5千円で足りるでしょうか?」
お金を一銭も出さずにドカンと座っている訳にはいかない。財布の中から、五千円札を出して、お義姉さんの目の前に出した。
「心配には及びません。お客様はそこでお待ちになってください。」
お義姉さんは、また足元を見た。
「…で、でも…」
麻希が言いかけたところに、
「私がご馳走するってさっき言ったばっかりでしょ。」
お義姉さんは一歩も引かずに押し付けた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。よろしくお願いします。」
「お言葉に甘えなさいな。じゃあ、行くよ、澤田。」
麻希が返事をすると、2人は、足早に去って行ってしまった。
つい先程財布から出した5千円札は、折角出したのに戻すのが面倒だ。そして三智ちゃんにお小遣いを包んでくるのを忘れたのを思い出した。なので、ポチ袋に入れることにした。
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