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そうして、家の中には、咲子と麻希の2人きりになった。
「それ、みっちゃんにあげるんでしょ。みっちゃん、喜ぶね。」
咲子は、ポチ袋を指差した。
「そうね、喜んでくれるといいな。」
「お姉ちゃん、なんで今まで帰って来なかったのに、突然帰ってきたの?」
少し、声に怒りが入っていたようにも、聞こえる。
「なんでって、今まで誰もなんの連絡もくれなかったじゃない。」
「普通は日本じゃ、お正月とか帰省するでしょ、それもなかったじゃない。帰るっていう連絡を入れるはずでしょ。みんな待ってたのよ、お母さんだって、お父さんだって。」
「こっちだって仕事があるのよ。」
「仕事と家族、どっちが大事なのか、わかってないの?」
「そんなの分かってるけど…。」
「分かってるなら、なんで帰ってこないの?」
「仕事の方が大事に決まってるのよ。」
「どういうこと?仕事のが、大事だって?」
「仕事をすれば見返りにお金が貰える。家族といたって、劣等感しか生まれない。お金は生活を助けるけど、劣等感はどうよ。生活を乏しくするでしょ。自分の心を虚しくするでしょ。」
「お姉ちゃんは、昔から私の憧れだった。」
咲子は突然語り出した。
「お姉ちゃんは、人一倍努力してたから。それは人間だから、誰だって最初は何をしても上手くいかないでしょ。最後はね、何事にも歯を食いしばって生きてきた人が勝つの。何回転んだって何度だって立ち上がる人が勝つの。お兄ちゃんはさ、すぐに諦めちゃうの、私もそう。弱い人間だから。」
「私だって弱い人間よ。帰ってこなかったのだって、お母さんから逃げるため。仕事とか都合の良いこと言って、結局それを盾に逃げ回ってただけ。」
「でも、仕事で成功してるでしょ、お姉ちゃんは。なんだかんだ言って、最後にはいつも成功するじゃない。」
「咲子だって、あんなに素敵な彼氏さんいるじゃない。留学も学生時代に経験して、自分の思う通りの道を歩めているじゃない。それ以上のことってある?」
「それは、今は好きなことさせてもらってるよ。でも、お義姉さんとか、職場の先輩、見てて時々思うの。結婚したら、仕事したくても、女の人って結局元のようにバリバリ好きな仕事するのは出来なくなっちゃうんじゃないかって。」
お義姉さんの言っていたことを思い出さなくもない。そして、麻希は、雑誌記者なので、自分の以前書いた記事にも照らし合わせてしまう。以前と言ってもかなり前のことだが。
『この世の日本の産後の既婚者の女性には、大きく分けて、4パターンぐらいの種類がある。
第一に、子供を産んで、それが愛らしくて仕事を辞めて家の中のことに尽くそうとするパターン。これは、自らが選んだ道であり、さして精神的にはキツくないことも多い。しかし、子供がある程度大きくなったり、何らかの理由で多額の資金が必要になったりした際には、自分で再就職しなくてはならなくなる。これが案外残酷で、そのまま働いていればよかったと実感するケースも、少なくない。
第二に、家族や上司などから、辞めて家のことに専念するのはどうかと勧められたパターン。最初のうちはやりがいを感じたり、手応えを感じたりするため、さして苦しくはない。又は、近年問題視されているハラスメントに苦しんでいたということもある。その場合は、普通よりも鬱的状態になりやすい。前述した資金の面の問題も十分にあり得る。それだけでなく、自分の志半ばで、仕事を投げ出すことになるケースもあり、後の後悔を生むこともある。
第三に、子供を託児所や、家族に預けてこれまで通りに働くパターン。これは、仕事がしたいという女性にとって一番理想的な形。しかし現代の日本では待機児童問題もあり、又預けることを認可されない場合もある。家族も協力的であるのならいいがそうでないと緊急事態が起きたときの対応が厳しい。
第四に、元々専業主婦であり、それまでと変わらず家事をこなすパターン。これが男性の求める理想なのかも知れないが、あまり現代的でない。』
この記事の反響は、いい意味でも、悪い意味でも想像以上に大きかった。
これに共感してくれる女性の間では、これをもとに家族を説得したりするのがいいとされていたらしい。実際、麻希のもとにも、感謝の手紙が何十通か送られてきた。
一方で、男性や結婚後すぐに専業主婦となった女性からは、現代的かは当人次第の問題でもあるのではないかという手紙が届いた。その考えをインターネット上で拡散されたり、麻希が未婚者だからと叩かれたこともあった。法的に訴えた方がいいのではと上司に言われるようなことさえ書かれていたこともあった。
「そうね、私も記事作りの時色々あったわ。でも、澤田さんって植物園の経営者なんでしょ。だったら別にその家業手伝えばいいじゃない。」
「守さんと本当に結婚できるか、分からないでしょ。明日のことだって誰にも分からないんだから。それにね、家業じゃなくて、両親に反発して植物園つくったのよ、あの人は。」
「ご両親は何て?」
「『もう守1人しかこの家には残ってないんだ。この病院を継げ』って言ってたらしい。」
「お医者さんの二世なの?」
「そうよ、お医者さんの二世。しかも、医師免許も持ってる。」
「勿体ない。」
「お姉ちゃんの恋人の龍二さんだって…。」
「龍二がどうしたって言うのよ。龍二は、なんの飾りっ気もない東京の隅っこの書店員でしょうが。」
「何で怒ってんの。まさか、龍二さんと別れたとか?そっか、その顔図星だね。最初に会った時に黙り込んでたから、薄々そうじゃないかと思ってたんだけどね。お姉ちゃんの方がよっぽど勿体ないわ。だからお義姉さんはあの時…。やっぱり何でもない。」
咲子はそこで口を紡いだ。あのこしょこしょ話の内容はそんなようなことだったのだろう。別にコソコソしたいなら、探る義理もない。
「というか、お義姉さん、澤田って呼び捨てにしてなかった?澤田さんのこと。」
「お姉ちゃん、お義姉さんから何にも聞いてないの?」
「何にも聞いてないけど。帰ってきてすぐに、咲子たちが来たから。」
「お義姉さんの高校生の頃の部活の後輩。」
「え、お義姉さんって高校の水泳部のマネージャーじゃなかったっけ。」
「勿論、マネージャーじゃなくて選手だけどね。ああ見えて、守さん体育会系なの。」
ああ見えてとか言っていたけど、かなり筋肉質な体をしていた気がする。恋人のことは若干悪く見えるのだろうか。
「そうだ、それなら。植物の道に進んだ理由、教えてあげるね。誰にも言ってない、本当の理由。ちょっと待ってて。取ってくるから。」
咲子はそういうと、椅子から立ち上がって階段の方へ歩いて行った。
麻希は、咲子に、憧れだとか、強い人間だとか、言われたことが未だ嘗て無かった。ずっと、咲子の才能に嫉妬していたから。そして、咲子のことを弱い人間だなんて、思ったこともなかった。
少しすると、咲子が何やら大きなクリーム色の箱を抱えて戻ってきた。
「お姉ちゃん、この箱、知ってる?」
と聞いてきた。
「知らない。」
「そっか。じゃあ中のやつもまだ読んでなかったんだ。東京に送れば良かったね。使えなくてごめん。」
「謝ること、ないでしょ。私が帰ってくれば、それで済んだ話なんだもん。帰って来なくてごめん。」
「これじゃ、ごめん祭りだね。取り敢えず、これ読んで。」
箱から一つの封筒を出して差し出してきた。
桜色の封筒で、少し厚みを帯びていた。
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