第10話

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第10話

 「……何、してんだろ」  手持ち無沙汰と急いた気持ちを誤魔化すために買った缶ビールに一口口をつけ、満足のため息の代わりに口から溢れ出したのはそんな呟きだった。本当に、何をしているんだろう。時刻は午後9時。駅から少し離れた国道脇のビル街の道端で、缶ビール片手にマンションを見上げる男が何者に見えるのか。人通りはそれほどないが、時折過ぎゆく人が自分に向ける視線にはどれも一様に少しばかりのトゲがあり、大園は知らず肩を窄めた。気持ちは分かる。家の近くでこんな人間を見かければ、不審に思うのは道理だ。明らかに仕事帰りと分かる男が、住宅街の真ん中で、まずそうに缶ビールを啜っている。怪しいにも程がある。分かっているなら帰ればいいのに、帰る気にはなれなかった。ここに来る決意を固めるのにかけた時間と、鉛の足を引きずってきた労力に報いるには、目的を達する以外にない。そのために今は、待つほかない。  JRの駅から徒歩15分、メトロの駅が周囲に三箇所あるこの場所は、方々の通勤地に便の良い都心の住宅街で、こじんまりとした古びたビルと大小のマンションが並び建っている。ビルには小さな企業がいくつか入っているようだが、時間のせいもあり辺りは静かで、国峰の立つ場所から30メートルほどの距離にあるコンビニの入店音さえクリアに耳に届いた。規則正しく並んだマンションの窓から漏れる明かりが、きらきらと美しい。視線を落とすと、エントランス脇、住人用の駐輪場の端にぽつんと置かれた補助輪付きの自転車を見つけ、金曜九時の家族の団らんはどんな風だろうかと、ふと思う。母に追い立てられた父子が、笑いながら風呂に飛び込む頃だろうか。チャンネルの主導権を奪われた父も巻き込んで、家族みんなで映画鑑賞が始まる頃だろうか。それとも、寝息を立てる幼い我が子を二人で見つめる、静かで幸せな時間の最中だろうか。四角い窓の向こう、閉じたカーテンの向こう側の世界を夢想し、国峰はもう一口、苦い液体を身体に流し込んだ。人と人とが交わる狭間に生まれる温もりを、羨ましいと思う。時にぶつかり合い、時に支え合う。そういう関係を羨ましいと思う。がちがちに作り上げた表の自分が、息苦しい。その鎧の内にねじ込まれたもう一人の自分が、助けてくれと身を捩る。苦しむ自分を裏に沈めて、鎧は笑う。だから、逃げたくなるのだ。ここから。表の自分を知る人が誰もいない場所へ。鎧を脱ぎ落として、遠くへ。ひゅるりと、すきま風が鳴く。空虚な部屋、空虚な心。分かり合えると信じる、強さが欲しい。声を上げることを恐れぬ、強さが欲しい。誰かに、知って欲しい。内でのたうつ自分を、分かって欲しい。それは夢だ。遠く、果てしない、叶うはずのない願い。幻だった。ずっと。  四車線道路向かいに見える十階建てのマンションを見上げ、ため息をつく。一番上のフロアから一段下って九階。向かって右端の窓から数えて四番目。904号室の窓は真っ暗で人気がない。二週間前、国峰に追い返された朝、今いるこの場所からあの部屋を見上げたとき、開け放たれた窓で風を受けてまあるく広がったカーテンが、ひらりひらりと舞っていた。一週間迷ってメールを送った。半分予想通り、送ったはずのメールは大園の手元に戻ってきた。やっぱり、という気持ち半分。がっかりが半分。それから、もう一週間迷った。迷って、迷ったけれど、もう一度話したい。もっと、国峰を知りたいと、その思いは消えることがなく、直接訪ねてみようと意を決したのが今朝だった。それでも、理由なく他人を訪ねるのにはやはり抵抗があり、手に持った紙袋の中にはあの日借りたジャケットと、今日帰りがけに閉店ギリギリのケーキショップで見繕った焼き菓子が入っていた。本当は酒でもとも思ったのだが、連絡も取りたくない相手からそんなものを送られても迷惑だろうと思ってやめた。服の礼として、菓子程度なら妥当だろうと考えて買って来てはみたものの、受け取ってもらえるかは分からなかった。そもそも、自分から離れていこうとする相手に近づこうということ自体が初めてで、勝手が分からない。自分から離れることはあっても、離れていかれることはなかった。そうなるように振る舞っていたから当然だ。誰ともぶつからないように、誰にも嫌われないように、そういう風に生きてきた。だから、誰も離れていかないのは当然だった。それが。それが、どうだ。本当に近づきたかった相手には離れていかれる。置いていかれる。俺が、下手くそだから。気持ちの伝え方を知らないから。自分を知られることが怖いから。だから、逃げた。国峰から。鎧を突き破る彼の真っすぐな視線から。中身をぶちまける勇気がない。分かり合えると信じる強さが、ない。そのせいで失う。夏の日差しのような強烈さはないけれど、春風に乗って薫る甘い桜の香りような、目には見えない、でも、確かにそこにある、幸せの片鱗。分かられることを望まないなんて嘘だ。本当は、誰かに知って欲しい。知って、笑いかけて欲しい。国峰なら、彼ならば、知ってくれるかもしれないと、そう思った。知られることを恐れない彼ならば、知ることも恐れないのではないかという、期待がある。期待というよりも、それはもうほとんど確信だった。国峰は、赦すだろう。どんな自分でも赦されるだろうと、確信している。追いすがるのはエゴだ。大園のエゴ。そうと分かっていても、抗えない。国峰の周囲に打ち薫る幸福の微香に、抗えるはずもない。だからこうして、甘い香に誘われた蜜蜂のように、大園はここに戻ってきた。戻ってきてしまった。蜜を溢す彼の方はもう、自分を必要とはしていないかもしれないのに。忘れられてしまっているかも分からないのに。失いたくないと、そう思った。  考えてみれば、金曜の夜だ。飲むのも食べるのも好きな国峰が、こんな日に真っ直ぐ家に帰るとは考えづらい。友達も多そうだしとちらりと考え、その瞬間、胸の辺りがちくりと痛んだ。大園の知らない誰かの前でもきっと、嬉しそうに目を輝かせて食事をし、楽しげな笑顔を向けるであろう国峰の姿を想像し、ざわりと胸が騒ぐ。それを嫌がる理由も権利も自分にはないのだけれど、それでも。それでも、心臓をやんわりと握られるような、ぞわりとした痛みが内から沸き上がり、大園は唇を引き結んで耐えた。……そうでなくとも。そうでなくともと、大園は国峰の笑顔を強引に頭から引き剥がして続ける。最初の日、彼は遅くまで仕事だったのだから、今日がそうでないという保証もない。ここに着いたときにはすでに部屋は暗く、チャイムは鳴らしたが反応はなかった。とはいえ実際には、居留守の可能性も否定できない。部屋からはエントランスの様子が確認できるのだろうし、大園と分かった国峰が意図的に無視した可能性もある。そうであれば、待つだけ無駄だ。それに、例え待って国峰が帰ってきたところで、彼が話を聞いてくれる保証もない。服も、返さなくていいと言われているものを大園が勝手に持ってきただけだし、国峰が相手をしてくれるかは分からない。大体、本気で国峰と話したいのなら、なにもこんな遠くから入り口を見張る必要などないのだ。入り口近くで待ち伏せて、中に入られてしまう前に声をかける方が確実だ。そんなことは分かっていながらこうしている大園はだから、本当は未だ迷っていた。一度目のチャイムは、勢いで押した。押してみて、返事がなかったことに、心のどこかではホッとしていた。追いかけたら、今よりももっと嫌がられるのではないかと思うと怖かった。国峰と話したいというのは大園の気持ちだ。国峰の方は、どう思っているか分からない。友達は無理と言ったのは自分の方だ。国峰は拒まなかった。あの日は間違いなく怒っていたし、朝は手早に追い出された。でも。でも、と思う。優しくはあったのだ。多分意識的に、あの朝国峰が大園に触れることはなかったのだけれど、腰の重さにいつもよりも少し動きの鈍い大園に、国峰は優しかった。それは、発する言葉の語尾とかちょっとした仕草の一つ一つにうっすらと滲むような類いの優しさで、言葉で説明するのは難しいのだけれど確かに、あの朝の国峰は優しかった。優しくて、そうしてその優しさの裏に、後悔が見えた。その後悔が自分と同じ形ならいいのにと、そう思う。それを縁に、ここにいる。国峰も、終わらせようとしたことを悔やんでいればいいのに。自分と、同じように。もう一度話をしたいと、そう思ってくれていればいいのに。保証はない。あるのは、もしもの話が一つきりだ。だから怖い。だから、踏ん切りがつかない。例え今国峰が帰ってきたとしても、話しかけられる自信はない。チャイムを押す自信もない。本当に避けられているのだとすれば、これ以上嫌われたくはない。嫌われたくないを優先するのならば、もう会わないのがベストの選択で、でも、それを選びきれずに、僅かな可能性にすがり付いている。同じ、かもしれない。同じ気持ちかもしれない。  住宅街の夜は静かに更ける。残暑と言うにはあまりにも強い九月の日差しを目一杯浴びて熱を溜め込んだアスファルトが、涼やかな夜気をぐらぐらと茹でる。少しずつ、でも確実に、季節は変わっている。捲りあげた腕に、国峰のつけた傷はもうない。それを少し、悲しく思う。  時計の針は午後十時を差していた。腕時計から目を上げ、大園は座っていた駐車場のガードパイプから腰を上げた。腕に下げたビニール袋の中で、空き缶がぶつかり合ってからりと音を立てた。  「……帰ろう」  わざわざ口に出したのは、自分に聞かせるためだった。もう帰ろう。国峰は帰って来なかった。もう、充分だろう。充分待った。多分、今帰ったらもう二度とここには来ないだろう。職場で国峰を見かけることはあるかもしれないが、話をすることはない。そうして少しずつ、忘れていく。他人に戻る。すれ違う数多の中の一人に戻る。それだけ。それだけのことだ。とんと一歩、足を踏み出す。終わり。これで本当に終わる。終わってしまう。  気がつくと、大園の足は国峰のマンションに向かっていた。これで本当に最後と、胸の内に呟く。これで、最後にする。最後にもう一度だけ、呼び鈴を鳴らす。十中八九誰もいない部屋の呼び鈴を鳴らすことに意味などない。実際的な意味は何もない。けれど、感情は理屈ではどうにもならない。だから、これは儀式だ。諦めるための儀式。自動ドアを一つ抜けて、数字の並んだ文字盤の前に立つ。904。すっかり記憶してしまった国峰の部屋番号を、もう一度脳内に再生する。904。ボタンに伸ばした指先が震えていた。まだだ。まだ期待している。あり得ない可能性にすがっている。もしかしたら、国峰は寝ていただけかもしれない。電気をつけないまま部屋に籠っていただけかもしれない。一度目は無視したけれど、二度目には無視できなくなって扉を開けるかもしれない。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。震える指でボタンを押す。9、0、4。パネル上部のディスプレイに、赤く数字が浮かぶ。後は呼び出しボタンを押すだけだ。これで、最後。ドキドキと鼓動が速まる。呼び出しボタンに指を乗せる。唇に触れる呼気が震えていた。  触れるか、触れないか。その程度の力でも、ボタンはあっけなく沈んだ。   一秒、二秒……心の中でカウントを始める。十秒が期限と、胸に定める。四秒、五秒……一秒の間隔が徐々に延びる。間延びしたカウント。反応はない。八秒……九秒……  「………………十秒」  声に出して言う。十秒。終わり。終わりだ。これで、おしまい。  人気のないエントランスは、耳鳴りがしそうな静けさだった。背後から、薄いガラス扉の向こうを過ぎゆく車の音が、いくつか聴こえた。  ふーっと、強く息を吐く。吐くほど肩の力が抜けてゆき、心拍が緩やかに低下する。そう。こんなものだ。希望は叶わない。夢は夢のまま。幻は幻のまま。そう簡単には叶わないから夢なのだ。だからまあ、現実はこんなものだ。肺の空気を一旦全て吐き出して、とんと靴を鳴らして身を翻す。大園が自動ドアを抜けたのとちょうど同じタイミングで、目の前にオレンジのタクシーが一台、滑らかに停車した。その場でちょっと立ち止まり、鼻から一気に息を吸うと、透明な夜が鼻孔をくすぐって体内に入り込み、その清らな冷たさに鼻の奥がつんとした。目を瞑って夜気を味わう一瞬、眼裏に浮かんだのはきらきらした国峰の笑顔だった。  「っ、ちょっと!国峰君、ちゃんと立ってっ、て、」  感傷にひたる間も無く、女性の声が呼んだ名前に反応して、大園はぱちりと目を開けた。  「ふ、はは。立てますよ。だいじょうぶ」  「立ててないから言ってんの。家ここでいいの?鍵は?」  目の前に止まったタクシーから下りてきた人物に目を留め、大園は暫し動きを止めた。先にタクシーを降りた小柄な女性が、運転手に謝りながら、ぐでんぐでんの男をタクシーから引きずり出そうとしていた。ふふふと締まりなく笑う国峰は、記憶の中よりも少しやつれて見え、半分眠っているように目が閉じていて、割合大柄な力の抜けた身体を女性の力で引っ張り出すのは難しそうだった。脳内の笑顔が霧散する。国峰が、いる。今ここに。目の前に。  「……あの、俺、やりますよ」  考える前に身体が動いた。突然声をかけられて、女性は驚いたように振り向いた。  「ええと……」  彼女の視線は胡乱げで、そんな大園らを見るタクシー運転手は困り顔で、なんでもいいから早くしてくれとその目が語っていた。  「……急にすみません。知り合いなんです。国峰さん」  「……そうなんですか?」  考えてみれば、こんなタイミングで突然声をかけてくるのは不自然だったとようやく思い至りそう告げると、女性の視線はいくぶんか和らいだが、まだ信じきってはいないようだった。それもそうかとすぐに思い、ちょっとすみませんと、身を屈めてタクシーの中の国峰に声をかける。  「……国峰くん」  座席でうつらうつらしている国峰の肩を強めに叩いて名前を呼ぶと、ぐらぐら揺れていた頭が一瞬しゃんとして、腫れぼったい目が薄く開いた。  「……ゆういちさんだ」  ろれつの回らない口で舌足らずに名前を呼ばれてどきりとする。ゆういちさんがいる、と彼はもう一度言い、子供のような無邪気さでふにゃりと笑って、大園に向かって手を伸ばした。  「……すみません。ご迷惑おかけしました」  運転席に向かってに謝ってから、国峰の腕を強く引く。バランスを崩しかけた身体を引っ張り上げて立ち上がらせると、わあと声を上げた国峰は笑いながら大園の首に腕を絡めて凭れかかった。ぼんやりと匂う、アルコールの臭気。  「うっわ、ちょっと、」  「ゆういちさん、なんでいるの?」  決して軽くはない国峰を支えるのはもうそれだけで大変なのに、首筋に鼻先を擦り付けて囁かれたら余計に、どうしたらいいか分からなくなる。道端で抱き合う違和感に顔から火を吹きそうな心地になり、これは酔っぱらいの介抱と言い聞かせてなんとか気持ちを立て直す。  「……ゆういちさんの匂い……」  それを、すんと鼻を鳴らした国峰の言葉が台無しにする。  「っ、いいから。ちょっと黙れよ」  国峰と降りた女性はタクシーの支払いをしていてこちらを見てはおらず、大園は国峰を黙らせようと少し強い口調でそう言った。それを聞いた国峰はまたふにゃりと笑い、この酔っぱらいは状況を分かっているのかいないのかと、早まる鼓動に目眩がした。支払いを終えた女性が振り返り、タクシーはすぐに走り去って行く。  「……あの、すみません。ありがとうございました」  私じゃ引っ張れなかったので助かりましたと頭を下げる女性に向かっていいえと応じると、ふにゃふにゃの国峰は大園を抱き締めた格好のまま首だけで彼女を振り返り言った。  「まちださん、この人が俺のなくしもの」  大園にはその言葉の意味は分からなかったが、彼女には伝わったようで、町田と呼ばれた女性はちょっと驚いたように目を見開いた。  「……ああ……」  なるほどと彼女は呟き、初めて、大園の目をまっすぐに見返した。突然向けられた視線の以外な強さに、どきりとする。強い目をした人だと、そう思った。そんな彼女に向かって国峰はしたり顔でこくりと大きく頷いてみせ、その勢いでふらりと傾いだ身体に引っ張られて大園もふらつき、視線は自然、女性から外れる。町田はその様子を見て少し笑い、じゃあ、と先程よりも大分気安い調子で大園に向けて言った。  「運ぶの、手伝ってもらっていいですか?私じゃちょっと引きずれないので」  もちろんと応じると、彼女は大園の荷物を指して、持ちますよと告げ、国峰には鍵の在処を大声で問い、鞄の中だとかぽっけの中だとか訳の分からないことを言う酔っぱらいの話に数分付き合い、ようやく見つけた鍵を摘まんで振りながら、なぜか機嫌よさげにマンションの中に入っていった。くたりと力の抜けた身体に腕を回して支えながら、大園も彼女の後を追う。自動扉を抜ける一瞬、よく分からない状況ではあるが最後ではなくなった、終わりではなくなったとふと思い、腕の中の身体が身じろぐ微かな感触に、胸の奥が熱くなった。  「……靴、脱いで」  「んんー……?」  エレベーターで九階に上がり、大園の案内で町田が904号室の扉を開けた。以前来たときと同様、部屋の中は綺麗なものだったが、昨晩の寝床になっていたのだろうか、ソファの周辺だけが生活感を残して散らかっていた。内開きの扉を押さえる町田の横を、国峰を抱えたまま抜けようとしたが、マンションの玄関は大人三人が動くには手狭で、お邪魔しますと呟いた町田は靴を脱いで部屋に上がり、国峰君お願いしますねと言ってソファの方に向かって行った。そうして大園は靴を脱ぐように国峰を促したのだが、エントランスから部屋に移動するまでの数分で彼の意識は更にぼんやりとして来ており、揺すぶって声をかけて、動き出して数秒でまた動きを止めるの繰り返しで、靴が脱げるまでには更に数分かかった。  「……ソファ空けたので。ここで」  国峰が靴と格闘している間に町田はソファの回りを手早に片付けたようで、雑然と散らばっていた本や寝巻き用のスウェットはきちんと揃えてローテーブルの上に並び、ずり落ちていたソファカバーは綺麗に整えられていた。頷いて、あとちょっとだからと国峰を励ましながらソファまで引きずり、二人でなんとかその身体をソファに横たえ、そこでようやく一息ついた。町田と二人、ソファ脇でカーペットに膝をついた体勢で、はあという自分のため息と、ふうという町田のため息が綺麗にシンクロし、二人で顔を見合わせて思わず笑った。  「……今までこんなんなったことないんですけどね」  すとんと尻を落として正座の姿勢になった町田が、疲れてたのかなと、寝息をたて始めた国峰に視線を落として言い、そういえばと大園を振り向いて、国峰君の同僚の町田ですと名乗った。  「ああ……ええと、大園です」  大園もなんとなく正座になって、ぺこりと会釈をして名乗る。室内の明かりの下で、初めてまともに顔を合わせた。華美さはないが、丁寧に施された化粧が好ましい。同僚、とはいえ、国峰よりは多分、大分先輩なのだろうと推察する。町田には幼さがない。若そうに見えるが、年齢的には、大園とそこまで変わらないのかもしれない。  「大園さん」  確かめるようにゆっくりと大園の名前を口にして、町田はじっとこちらを見つめた。国峰とどういう関係なのかは聞いてこなかった。そのことにほっと、胸を撫で下ろす。そうしてから、ほっとする自分に嫌気が差して、大園は町田から視線を反らした。友人とも名乗れない自分が、後ろめたい。そらした視線を向ける先に困り、仕方なく、国峰の寝顔に目を留めた。  「……国峰君、先々週くらいからちょっと様子おかしかったので、今日飲み行こうって誘ったんです」  町田がおもむろに口を開いた。先々週。二週間前。とくりと、心臓が跳ねる。眠る国峰の表情はあどけなく、幼い。  「……私、この子が弱音吐くところって見たことなくて。最初っから、なんていうか、変に前向き?」  悪いことじゃないんですけどね。  そう言う町田の声は僅かに笑いを含んで柔らかく、彼女が国峰を憎からず思っていることが良く分かった。可愛いと思う。その気持ちは、良く分かる。  「……国峰君がうちの会社に入った年、私4月まで育休中で顔合わせが5月になったんですけど……初めて顔会わせたときに……朝ですよ?朝顔合わせて自己紹介してたら急に、恋愛対象は男ですって言われて、私ちょっと面食らっちゃって、え、ああ、そうなの?って返事したんです。そうしたら、それ聞いてた他の人たちがくすくす笑ってて。後で訊いたら国峰君、最初の飲み会の時にみんなの前で同じこと言ったらしくて、私以外もう皆知ってたんです」  そこまで言って、町田はその時の事を思い出したのか、くすりと笑った。  すごいなと、胸の内で思う。この人は、知っているのか。知っていて、国峰を可愛いと思えるのか。町田だけではない。国峰の職場の全員が、国峰の普通でない部分を知って、受け入れている。笑って、認めている。国峰がそうさせた。国峰の勇気が、その温もりを作った。この男には、この幼い彼には、それが出来るのか。大園が夢幻と思って諦めた温もりを、作り出すことが出来るのか。すごいなと、そう思う。お前はすごい。  「……で、だから私、後で国峰君に訊いたんです。何であのタイミングで言ったのって。そしたら彼、“後出しはずるいでしょ”って言ったんです」  「……後出し?」  「そう。後出し。“先に言っておけば、嫌な人は俺から離れていけるでしょう”って、そう言ったんです」  大園はくるりと町田を向いた。微笑む横顔が、そこにある。  ああ、と思う。ああ。そうか。国峰は委ねているのだ。隠さず晒して、受け入れられるか、られないか。それは相手次第。ダメならダメで、仕方がない。けれどもきっと、受け入れてくれる人はいる。そう信じて、声を上げる。そうして確かに、受け入れられている。全ての人に、という訳にはいかないけれど、声を上げれば、受け入れてくれる人はいる。だってそうだ。ここにも一人、確かにいる。町田の笑顔は、この温もりは、国峰が勝ち取ったものだ。国峰の信頼に、応えてくれた人がいた。これは救いだと、そう思う。振り絞った勇気の対価。大園には得られなかった、他者との間に生まれる温もり。  だけど、と僅かな間を置いて町田は再度口を開いた。  「……だけど今日、国峰君言ってたんです」  普通じゃない自分が嫌いなんだ、って。  自分が、嫌い。その言葉の冷たさに、どきりとする。その冷たさがあまりにも身近で、どきりとする。自分が、嫌い。普通ではない、歪な、罪にまみれた、自分が嫌い。  町田の目がこちらを向いた。  「嫌う必要なんてないのにね」  その通りだと、頷けない自分がいる。自分が、嫌い。普通ではない自分が、嫌い。その痛みを知っている。その苦しみを知っていた。知りすぎるほど知っていた。だから、彼女の言葉には頷けない。頷けるはずがない。  何も反応できない大園の前で、町田の微笑に隠微な影が射す。  「……大園さんも、そういう顔するんですね」  国峰君と同じ顔と、彼女は寂しげに笑った。直後、町田は声のトーンを上げて唐突に言った。  「……大園さんは、育児中のハイヒールってどう思います?」  「……はい?」  「小さい子供を抱っこしてるお母さんがハイヒール履いてるの見たら、どう思います?」  脈絡のない問いかけにええとと答えあぐねる大園を見て、町田は明るく笑った。  「男の人はあんまり考えることないかもしれないですね。というか私も、自分が親になるまで気にしたことなかったんですけど」  母親のハイヒールって、良く思わない人が一定数いるんですよと彼女は言葉を続けた。  「私もともとヒールが好きで、子供が生まれてからも家族で旅行とか遠出するときには履いてたんですけど、それを嫌がる人がいるんですよね。理由は、転んだら危ないとか、子供遊ばせるのに不便だろうとかそういうことだったりするんですけど」  言ってることは分かりますよと彼女は軽く肩をすくめた。  「けど、転ぶような不安定なヒールは履かないし、公園に行くときはさすがにペタんこ靴だし、やることやってるんだからいいじゃないって思ってたの。だけどあるとき、旅行先で夜中に子供が熱出しちゃってヒールで夜間救急かけこんだら、年配の看護師さんに足元じろじろ見られながら、ちゃんと面倒みられてるの?って言われたんです」  それはものすごい衝撃だったと彼女は言った。  「だって、身なりひとつでそんなこと言われるんですよ?自分の常識に一致しないことをする人はダメな人って決めつけてるの」  あの時は屈辱的過ぎて泣きたくなっちゃったと、町田はちょっと唇を尖らせた。  「それで、国峰君のカミングアウトを聞いたとき、私なりに考えて……同性を好きになるってことは、ハイヒールが好きってことと同じなのかもって思ったんです」  誰かの普通がみんなの普通とは限らないし、自分の基準になぞらえてしか他人を見ることのできない人もいる。大なり小なり、みんな普通ではない部分を持っていて、それは受け入れられたり受け入れられなかったりする。そうやって、受け入れたり受け入れられたり、いがみ合ったり和解したりして生きている。それが、普通なんじゃないですか?  「だから、嫌う必要ないんですよ。普通じゃないのが普通だから」  これは私なりの理解で、当人からしたらそんなつまらんことと一緒にするなって思われるのかもしれないですけどと彼女は悪戯っぽく笑い、直後、至極真面目な顔をして言った。  「だから、普通じゃない自分のことも、好きでいていいんですよ」  その真っ直ぐな瞳の中に、確たる思いがある。実感を伴った感情がある。その力強さに気圧される。価値観の問題だと、自分は国峰に言ったのだ。価値観の問題だ。価値は流動的だ。戦時の英雄は戦犯として裁かれ、法は時代により整備され、株価は刻々と変化する。固定的な価値などない。無いはずなのに。ではなぜ、”普通”だけが不変と思う必要があるのだろう。”普通”も可変だ。”普通”が何かなんて誰にも分らない。普通じゃないのが普通なら、誰もが皆普通ではないし、誰もが皆普通のはずだ。”普通ではない自分が嫌い”は、”普通の自分が嫌い”と同義で、”普通の他人が嫌い”と同義で、”普通ではない他人が嫌い”と同義だ。ならば自分は、今目の前にいるこの奇特な女性を嫌うだろうかと大園は自問し、嫌うはずはないと結論する。嫌いになど、なるはずがない。  好きでいていいんですよ。多分ねと、町田は破顔し、ちらりと時計に目をやって、そろそろ帰りますと腰を上げた。そこからの彼女の動きは素早くて、国峰君と大園さんの荷物はそこに置きましたと部屋の隅を示して言い、自身の鞄を掴むと、中から国峰用に買ったというミネラルウォーターのボトルを取りだし、ローテーブルの上、先程揃えた本の隣にボトルをとんと置いて言った。  「四歳の娘を旦那に預けてこんな時間まで出歩いてる母親も、普通じゃないですよね」  そう言って軽く首を傾げた彼女の動きに合わせて、町田の前髪がふわりと揺れた。  「でも私は私のことが嫌いじゃないし、旦那も娘も、私のことを好きでいてくれるので」  それで充分です。  じゃあと町田は朗らかに笑い、なぜか大園に向かってお邪魔しましたと声をかけ、颯爽と部屋を後にした。彼女の背中が風を纏う幻影を見る。その強風が、叩きつける雨を伴って大園の内をかき乱し、洗い、流す。嵐は空を、空気を磨き、湧き出す清水となって大地を潤す。
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