第3話

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第3話

 剣道の前にもう一回と、誘ったのは大園の方だった。  「ネットで動画見たけど、決勝とかめちゃくちゃ静かでびびった」  「知らないとびっくりしますよね。最初の方は同じフロア内で何試合も同時にやるんで賑やかなんですけど、勝ち上がるごとに試合数減るから。決勝なんかはほんとにシーンとしてます」  スポーツ観戦のイメージだとびびるかもと続けた国峰の言葉に、大きく頷いて同意を示す。  「叩くときの音すごいしさ。痛くない?」  「竹刀の構造上大きく鳴るように出来てるので、耳で聞いた感じほど痛くはないですよ。防具もしてるし。……あ、でも小手は思いっきりこられると結構痛いです」  「竹刀落としちゃってる子いたわ……あと突き!あれすんごい怖い。怪我しないの?」  「んー……しないことはないですね。だから突きは高校生以上の大会でしかやっちゃいけないことになってて」  高校で剣道出戻りしてから暫く、突きが怖くて打ち込めない時期がありましたと肩を竦めて国峰はちょっとおどけて見せ、つまみに頼んだ薄焼きピザをひと切れ口に運んだ。国峰はよく飲むし、よく食べる。若いから、という以前に、多分、食べるのも飲むのも好きなのだ。前回、ビール以外に好きな酒は何かと訊いたらワインと答えたから、今日の店は大園の気に入りのワインバルで、酒のチョイスを大園に任せた国峰は、フードメニューを一通り眺め、前菜数種、ピザ、ラムのローストをオーダーして機嫌良く食事をしていた。食べ方が綺麗だと、そう思う。特別気取っているわけではない。ただ、大きすぎない一口とか、物を飲み込んでから話し出すところとか、そういう細かな動き一つ一つが合わさって、綺麗に見える。きちんとしている。多分、育ちがいいのだ。丁寧に育てられた。そんな感じ。  旨そうに飲み食いする国峰につられて大園の酒も進みが早く、気づけば料理に合わせて頼んでおいたワインはメインが来る前に2本とも空いてしまい、今あるこれは3本目だった。流石にちょっと、飲み過ぎている。今日はまだ木曜で、明日は平日だ。潰れるほど飲んでいるわけではないが、訳もなくふわふわと楽しい気持ちになる程度には酔っ払っていて、そろそろやめた方が良いことは分かっている。分かっては、いるのだが。  ……なんか、楽しいんだよな。  国峰といるのは、なんだか楽しい。こういう風に話をするのはまだ2度目で、この男のことは多分、知らないことの方がずっと多い。それなのに、なぜか気安い。気がつくと気を抜いている。国峰の前では、なぜか。  自慢じゃないが友達は多い。昔から社交的な方だった。そこに営業一筋十五年のキャリアが乗っかって、今や大園にとって人に好かれることは呼吸をするのと同義だった。意識をせずともオートマティックに、相手を測り、読み、”その人にとって付き合いやすい自分”を作り上げる。苦手なタイプがないわけではないが、苦手意識を気取られることなく付き合う術も知っている。それが辛いと感じたことは一度もない。これはもう性で、特技だ。友達付き合いにしろ仕事の付き合いにしろ、気分良くやれるなら、それに越したことはない。ただ、まあ。時々、ここではないどこかを夢想する。無理をしているつもりはない。ないけれど、時折ふと、一人になりたいと思う瞬間がある。繁忙期を過ぎたオフィスで、仲間内で盛り上がった飲み会の帰りに、ふと、どこか遠くへ行きたいと思うのだ。誰もいない、どこか遠くへ。自分を知るものなど一人もない、遠い場所へ。  今朝もそうだった。身支度を整えて、一人暮らしの部屋を出る直前、静まりかえった部屋をぐるりと見回した瞬間、突然、胸の内をひゅるりと隙間風が吹き抜けた。静かで、寂しい部屋だと思った。何もない。ここには、何もない。意味もなく悲しくなって、大園はその場に立ち尽くした。目の前に広がるがらんどうに、寒気がした。何もないわけがないと、理性では分かる。共に笑い合う友人がいる。いつも身を案じてくれる家族がいる。仕事では十分に認められて、先日課長に昇進した。37年分の積み重ねが、確かにある。何もないわけがない。何もないわけがないのに、それなのに、酷く空虚だった。どこか遠くへ行きたいと思った。でも、どこへも行けないことも知っていた。そうしたらふと、国峰の顔が浮かんだ。友達になろうと手を差し出した男の、泣き出しそうな笑顔が浮かんだ。  「……失礼します。こちら、ラム肉のローストです」  ウェイターの声で我に帰る。音を立てずに置かれた皿の上には、かなり赤みを残して調理された肉が、しっとりとした切り口を表にして並んでいた。付け合わせの野菜はズッキーニやパプリカで、カラフルな色味が美しい。国峰の目が輝く。赤ワインのグラスを傾けながら、大園は思わず笑った。この男は、いちいち素直なのだ。感情表現がストレートで、ちょっと強引。取り分けちゃってもいいですか?と口許を綻ばせた国峰の問いにありがとうと応じながら、違うなと、大園は思い直す。あの時、握手を求めて手を差し出したこの男は、泣きそうに笑ったりはしなかった。あの時も国峰は、ただ笑顔だった。大園の頑なさえほどく程にふうわりと笑みながら、ただ、手だけを小刻みに震わせていた。真っ直ぐだから、どんなに笑顔で取り繕っても、胸の内一つ隠すこともできない。俺とは真逆だと、そう思う。  「……大園さんは優しいですよね」  ボトル3本を飲み終えて、デザートまできっちり腹に入れた後で不意に、国峰が言った。それなりに酔っ払ってちょっとぼんやりしていた大園は、声に引かれて国峰に視線を向けた。  アルコールにのぼせた目元が赤く染まっていた。とろりと蕩ける三白眼。色が白いせいで、赤が目立つ。  忘れたわけではないと、朱に染まった頬を見て思う。忘れたわけではないのだ。この若い身体の温度を、感触を、忘れたわけではない。あれから誰とも寝ていないから、余計に。未だにあの日の記憶は鮮明で、赤く染まった三白眼というただそれだけの手がかりですら、脳を蕩かす呼び水になる。  「……何、急に」  じわりと滲む劣情を胸の奥に押し込めて、大園は勤めて素っ気なく応じた。危険な赤から目を反らす。やっぱり。やっぱり、異物だ。国峰春人は大園の日常において、紛うことなき異物なのだ。  表と、裏がある。誰だってそうだ。表の自分と、裏の自分。大園の裏側は、新宿二丁目だった。表の人間には、誰にも何も、言ったことはない。両親も兄弟も友人も同僚も、誰も知らない。表とは隔絶した裏側。だから、裏が表に滲出することはあり得なくて、抑えねばならない劣情など、大園には無かった。表の住人にこの“普通でない”気持ちを向けることなど馬鹿げているし、裏の住人は“そのための相手”だったから。国峰は交錯点だ。表と裏の交じり合う場所。  「剣道見ようって言ったら調べてきてくれるし……今日だって、誘ってくれたし」  優しいですよねと、国峰が繰り返す。気遣わせちゃってすみません。  無邪気な笑顔に気圧されて、大園は思わず視線を逸らした。別に、優しくなんてない。気を遣っているわけではない。いつもは、そうだ。気を遣っている。多分。相手が欲しいものを探り、欲しい言葉を渡す。そうして仲良くなれれば自分も嬉しいから。その方が楽だから。そうやって溶け込もうとする。けれど、国峰に関しては違う。異物は、排除すべきなのだ。この関係は絶つべきだと、そう思う。そう思うのに近づいたのはだから、気遣いでもなんでもない。大園がそうしたいと思ったからだ。体の内の空虚な部分に、国峰なら何かを注いでくれる気がしたから。だから、誘った。  「……別に、優しくないですよ」  だって俺は、お前を異物だと断じている。異物だと思いながら、自分のために、お前を利用している。優しくなんてない。ただ、寂しかっただけだ。寂しくて声をかけた。  「……大園さん、クローズって言ってましたけど、」  親にも言ってないですか?  視界の外で、囁くように国峰が言った。内容の唐突さもさることながら、その言い方がらしくなくて顔を上げると、言葉の弱々しさからは想像もつかない強い視線がこちらを向いており、引き結ばれた唇、テーブルの上で握られた拳と順にとらえた瞬間、大園の脳は揺蕩う思考を瞬時に切り上げ身構えた。  「……言ってない」  警告音が鳴る。表と裏が交じり合う。“ただの友達”を外れる。危険を知らせる、赤。  「……言おうとは、思わないんですか?」  「思わない」  即答した。国峰がくっと眉を寄せた。この男は知って欲しいのだと、その反応を見て分かった。家族に、自分を。”これから言う”のか、”もう既に言った”のか。どちらにしろ、国峰の考えは大園とは相容れないものだと、その瞬間、分かった。だから。  「……なんでですか?」  だから、この質問に対する大園の答えは、国峰を満足させない。国峰を喜ばせない。これからも“普通に”仲良くやりたいなら、ぶつかるべきじゃない。これは、言うべきではない。人を読むことに長けた本能が告げる。分かっている。  分かっていて、言った。  「言ったとこで、うちの両親は絶対分かってくれないから」  「……絶対、とは限らないんじゃないですか」  一段声を低くして国峰は言い、力のこもった拳に浮き上がる筋がぞろりと僅かに動いた。こちらに向いた視線が、剣を帯びて光る。  「絶対、だよ。絶対、理解しない」  凄みを滲ませる笑わない三白眼を真っ直ぐに見返して断言する。絶対、理解しない。理解してくれるわけがない。投げやりな気持ちでも諦めてしまったのでもない。本心から、そう思う。彼らには分からないだろう。分かり合うことは出来ないだろう。たくさんの時を共に過ごして、冷静に分析して出した結論がそれだった。だから、表と裏が必要なのだ。分かり合えなくても共存するためには、表と裏をきちんと分けておく必要がある。絶対に、交じり合ってはいけない。  「……普通じゃないのはこっちなんだから、理解されたいなんて無理があるんだよ」  彼らに理解される表の自分と、理解され得ない裏の自分。両親だけではない。自分と関わるありとあらゆる人、普通の範疇に生きるありとあらゆる人に、理解されない、裏の部分。分かって欲しいとは思わない。分かってもらうことを望まない。だから誰とも、大園優一の全てを共有するつもりはない。この考えが正しいのか間違っているのか、それは分からない。違う考えがあることも知っている。その考えも、理解はできる。けれど、少なくとも。大園は自分の意思で選び、動いてきた。今更それを変える気はない。  ぴくりと、国峰の目蓋が震えた。歪んだ目元は苦しげで、怒りとも悲しみともつかない微妙な表情を浮かべた国峰は一度、何か言いたげに口を開いたが、わななく唇からは何の言葉も出なかった。  その口許をじっと見つめ、残念だと、そう思う。思った瞬間、何がと自問する。何が、残念だったのか。視線の先で、男が下唇を噛みしめる。何も言わないまま、口を閉じる。それを見て、酷く悲しい気持ちになる。隙間風がひゅるりと吹き込む。空虚だった。この空虚には、お前も、お前でも、太刀打ちできないのか。お前も、この空虚を埋めるものを持たないのか。  「……普通じゃなくたって、分かってもらいたいと思うのはいけないことですか?」  拳を握り目を伏せて、消え入るような声で国峰が問う。そんなことを訊かれても分からない。知るわけがない。震える拳を目の端に捉え、教えて欲しいのは俺の方だとちらりと思い、すぐに何をと自問する。  「……帰ります」  周囲のざわめきばかりが耳につく数秒の沈黙の後、くっと顔を上げた国峰がきっぱりと言った。目元の赤さはそのままだったが、もう、そこに熱は無かった。冷たい視線。ひやりと酷薄な三白眼。答えを待たずに席を立つ国峰を大園は止めず、するりと離れていく後ろ姿を見送った後で、テーブルに残された飲食代にしては多すぎる万札数枚を見、手切れ金、とひとりごちた。そうして、空になった向かいの席を見、今週末の予定が無くなってしまったことに気づき、その瞬間、胸の内をまた一つひゅるりと風が吹き抜け、大園はぶるりと身を震わせた。
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