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第4話
「……いただきます」
習慣でそう呟いて、つい今しがたコンビニで購入したばかりのサンドウィッチを袋から取り出し、封を切る。急ぎの用があるわけでもないのに、デスクで片手間に済ませる昼食は久々だった。
ー……普通じゃないのはこっちなんだから、理解されたいなんて無理があるんだよ
ぱりりとしたレタスの歯切れの良い音に被さるように、脳内で声が再生される。無意識にぎりと奥歯を噛みしめると、葉野菜の青臭さと苦みがつんと鼻に抜けた。
裏切られたと、そう思った。昨日は眠れなかった。
昨夜、大園の言葉にカッとして、ざわつく気持ちのまま店を飛び出した。電車に乗っている間、苛立ちを和らげようと携帯でネットニュースを開いてみたのだが、大して実のない文面は一つも頭に入らず、目だけが文字の上を上滑り、脳内は文字も音もぐちゃぐちゃに交じり合った混沌で、叫びだしたい気持ちを抑えるのに必死だった。駅からマンションまでの道を速足で歩き、部屋に入ってすぐ、いつも通りに鞄を置こうとしたのだが、手元が狂って放り出し、中身を床にぶちまけて舌打ちをした。着替えるのも面倒でワイシャツ姿のままベッドに倒れ込むと、自身の身体から立ち上るアルコールの匂いが嫌に鼻に付き、国峰はくそっと毒づいた。くそっ。なんなんだよ。胸が焼けるようだと思う。腹の底からじわりと沸き起こる黒い炎に、内から焼かれて内蔵が焦げる。吐く息が熱い。勢いを増した炎の先端が柔らかな脳をちりちりと炙る。あんたが、それを言うのか。普通じゃない。普通ではないかもしれない。でも、じゃあ、普通でないことを理解されたいと思う俺が悪いのか。普通になれないのに理解されたいと思う俺が、傲慢なのか。でも、だって、知って欲しい。分かって欲しい。受け入れて欲しい。そんなの、当然の欲求だ。人として当然の欲求。大切な人に分かられたい。そんなに大それた願いではないはずだ。なんでだよと呟く。呟いて、驚く。怒りに任せたはずの呟きはなぜか、酷く悲しげに響いた。
眠れないまま一夜を明かし、5時頃起きだしてシャワーを浴びた。普段よりも1時間早く家を出て、1時間早く出社した。大園に会いたくなかったのが一つ、やることがないまま家にいると気が滅入りそうだったのが一つ。デスクについて仕事を始めると、自動的に頭が切り替わる。余計なことを考えずに没頭できる。多分、それなりに向いているのだと思う。イギリス留学中に参加した企業説明会から、とんとん拍子で今の証券会社に採用された。もともと英語力を買われての採用だったため、同期の多くが営業からキャリアをスタートする中、国峰は海外支社の経営指針を制作する経営企画部に配属となり、今年で3年目になる。先輩たちはそれぞれ支社を任されているが、国峰にはまだ担当がなく、現在の業務は、目標達成率の推移入力等の雑務や折々の会議資料作成、外国から来る顧客の接待、社長の出張の随行などだった。単純作業を黙々とこなすことは嫌いではないし、人の話を聞くのは好きだから、仕事に大きなストレスはない。まして今日のような日は特に、淡々と進む単純作業は心地よかった。没入している間は、他のことを忘れられる。
「……国峰君さぁ……なんかあった?」
声をかけられて顔を向けると、隣のデスクの町田が頬杖を付きながらこちらを向いていた。彼女は国峰の十年先輩で、配属当初の教育担当だった。割合とねちっこいお局的な女性が多い部署内で、さばさばした彼女はちょっと浮いていて、連れ立ってランチに出ることはあまりなく、何をするにしても少しずらして動くことが多かった。多分、煩わしいのだろう。女性的な華やぎに価値を置く彼女らの話に付き合うことが煩わしくて、彼女は今も、こうして一人でいる。合わせるつもりがないのなら、合わせられる気がしないのならば、近づかないのが吉。分からないわけではない。口内の苦みを飲み下し、国峰は意識的に笑ってみせる。
「いいえ。特には」
「……ほんとに?……いや、別に聞き出したいとかじゃないんだけどさ。あんまり根詰めないでね……顔、怖いよ」
とんと自身の眉間を指先で叩いて町田が言い、ひょいと肩をすくめた。
「君、調子悪い時ほど仕事早いから怖いわ」
それは、忘れたいからだと国峰は思う。嫌なことを頭から締め出したいから、没頭する。忘れたいことが多すぎる。
「……なんかそれ、普段がダメみたいですね」
「違うでしょ。君は常々十分やってるから、もうこれ以上頑張んなくていいよって話」
捻くれた受け取り方しないでよと町田は屈託なく笑い、トイレで鏡でも見てきなと言い置いて席を立つと、ランチ行ってきますと部屋に残った何人かに声をかけて出ていった。昼時のオフィスに居座っているのは国峰を含めて3人で、一人はPCから顔を上げないままいってらっしゃいと応じ、また別の一人は伺うように顔を上げたが何も言わず、国峰は視線を送る気力もなく、無人になった町田のデスクを見続けた。十秒ほどの沈黙の後、食べる気の失せたサンドウィッチをフィルムに戻し、背もたれに背中を預けてはあと息を吐く。動いている間は気にならなかったが、目を閉じると、どんよりと重い身体が椅子の上で形を失い、スライムのように隙間から垂れ落ちて流れていきそうだった。もし俺がスライムなら、と国峰はその馬鹿馬鹿しい妄想を少し広げてみる。色は紫か灰色だ。毒にやられているか、濁ってくすんでいるか。カラフルに透き通るスライムの中に溶け込みたいと願っても、多分すぐに見つかって、遠くへ放られてしまうだろう。お前は異質だと、責め立てられながら。
背もたれをぎしりと鳴らして、昨日、大園の言葉になぜあれほど腹が立ったのかと胸の内に問う。何が、俺をあれほど苛立たせたのか。普通ではないという言葉だったか、理解を諦めた物言いだったか。……否。腹立たしかったのは、それを言ったのが大園だった事だ。別に、いい。分かってはいるのだ。マジョリティの常識に擬態してひっそりと生きるマイノリティがいることも、分かっている。分かっているし、それにどうこういうつもりはない。それはその人の生き方で、他人が介入していいものではない。でも。でも、と思う。でもそれは、あまりにも悲しい生き方ではないだろうか。打ち明けるのは怖い。だって、受け入れてもらえないかもしれないから。けれど、それでも打ち明けようと思う時、そこには信頼があるのだ。信頼しているから、打ち明けようと思う。打ち明けたいと思う。だから、絶対に理解されないなんて、そんなの、あまりにも相手を軽んじている。見縊っている。
国峰自身は、大学入学以降ずっとオープンだ。性的指向など普通にしていれば話すことはないのだから、聞かれたら答えれば良いという考えもあるだろうが、国峰は基本的に自分から言う。そもそも前提が違うのだから、最初に言っておくべきだというのが国峰の考えで、もしそれによって離れていくような相手なら、その人とはそれまでと考えればいい。性的指向の話をしないのは、それが“普通”は異性に向くという前提があるからだ。前提を覆すなら、早い方がいい。普通でないことは折り込み済みで、それでも分かられたいと思うのは間違っているだろうか。間違ってなどいないはずだと、そう思う。分かられたい。分かってくれると信じている。期待している。期待があるから、自分をさらけ出すのだ。勇気を持って。相手を信じて。それを、あんな風に。分かってもらいたいと願う国峰が悪いかのように言われる筋合いはない。
「……あんただって、同じくせに」
同じように、“普通”の外にいるくせに。
ぎっと椅子を鳴らして身体を戻し、ぱちりと目を開ける。スリープモードの真っ暗なPC画面に、目つきの悪い男が映る。高校で一気に背が伸びた。もともとの三白眼も手伝い、ある時から急に怖がられるようになった。中身は何も変わらなくても、ちょっとした変化で一つで、人の態度は簡単に変わる。それでも、笑いかければ笑い返してくれるのが人なのだ。きっとそうだと、信じている。歩み寄れば触れ合えると、信じている。いつか必ず分かり合えると、信じている。信じているから、裏切られれば何度でも、心が潰れるような衝撃を受ける。人は、信じるに値する。信頼には信頼が返ってくる。誠実には誠実が返ってくる。そうでなければ浮かばれない。浮かばれないと、国峰は思う。
「次いきましょう!次!」
「二次会どこにします?カラオケ?」
「課長ー、カラオケでいいですかー?」
「お前、それわざとだろ」
わざとらしく課長呼びをする部下の肩を小突いて苦笑する。未だ、この呼ばれ方には慣れない。日中蒸されてじめついた夏の夜の空気が、下水の匂いを纏って滞留し、身体に纏わりつく。不快だった。じめじめした空気も、一日中着続けたワイシャツの湿り気も、アルコールの臭気を纏った人々の群れも、全てが不快だった。そうして、その不快をおくびにも出さずに笑う自分が、とかく何よりも不快だった。
今日は諸般の事情によりのびのびになっていた新入職員の歓迎会があった。特に何があるわけでもない時期だが、不景気とはいえ金曜の夜は誰もが少し陽気になり、オフィス街にほど近い歓楽街は華やかな賑わいに満ちており、その華やかさと好対照をなす胸の内の陰りを、大園はどこか他人事のように眺めていた。笑う自分。不快を内に湛えた自分。外と内が乖離する。落ちてるなと、冷静に思う。落ちている。時々、こうなる。
「大園さんも行きますよね?」
「課長、歌うまいって聞きましたよ」
聴きたいですと、4月に大園の課に移動してきた女性社員が明るく言った。華やかに笑う彼女に軽口で応じながら、確か、この子も3年目だったはずだと大園は思う。入社3年目、新卒採用でダブりがなければ25歳。国峰と同い年。活気と熱気に満ちたその肉体を、若いと思う。若い、というよりも、幼いという方が近いかもしれない。外面的な若さだけではない。滲み出す内面が、若く、幼い。発展途上にある。振り返って、自分はどうかと問われれば、37年の人生キャリアも未だ十分に若輩者の範疇ではあるのだが、しかし、幼さはない。ピーターパンではあり得ないのだ。夢見る力も創造力も、だいぶ以前に置いてきてしまった。それを悲しいとは思わない。今の自分は嫌いではないのだ。確かに時々不備が出て、時折、逃げ出したくなる空虚に襲われはするがそれも、精々この程度だ。この程度の不備はきっと、誰もが抱えている。だから、別段現状からの変化は望まない。望まないのだが。
ー……普通じゃなくたって、分かってもらいたいと思うのはいけないことですか?
今になって、そんな事を聞いてくるなと、そう思う。正解のある問題は簡単だ。出した答えに、マルかバツが付く。マルがつけば正解。バツがつけば不正解。目指すべきものは明瞭で、求めるべきはマルだ。でも現実には、そんなシンプルな問いは存在しない。誰かにとっての正解が、自分にとっての不正解かもしれない。だからもう、自分の感覚に従って答えを選び取っていく他ない。その上、選んだ答えにマル付けをしてくれる人もない。いつまで経っても、マルもバツもつかないまま、“多分こちらがベターなはずだ”と言い聞かせながら進んでいく。言い聞かせながら、進んできた。だから、今更。今更、そんな事を聞いてこないで欲しい。自信のないまま放り投げたもう一つの答えを、目の前に突きつけないで欲しい。
「……あ、でも大園さん、あんまり遅いと彼女怒るんじゃないですか?」
振り返って問う彼に応じる、愛想のいい男は何者だろうか。同棲中の彼女がいる独身男の虚を、大園は内から嗤う。
「あぁ。今日は言ってあるから、」
大丈夫、と言いかけて口を噤む。職場近く、駅前の繁華街、午後十時、平日。驚いたのは、これほどの至近距離に至るまでその姿に気がつかなかったことについてで、国峰がここにいることそのものには別段、なんの驚きもない。確かに、出会う可能性はあった。可能性はあったが、昨日の今日で近づいては来ないだろうと思っていた。近づくつもりもなかった。
「……優一さん」
ざわめきの中、その声はなぜか酷く明瞭に際立ち、人通りの度に扉の開閉を繰り返すパチンコ店の騒音も、遠慮のない酔っ払いの笑い声も、ここではただのBGMだった。真っ直ぐにこちらを向いた、目。視線が絡む。無視、できなかった。
「……課長?」
立ち止まった大園を訝しがった女子社員が問い、国峰の姿を認めると、ちょっと目を見開いた直後、仕事場では見せない取り澄ました笑顔を作り国峰を見つめた。ざわつく心とは裏腹に頭は不思議と凪いでいて、女受けもいいんだなと、そんな事を思う。
「課長、お知り合いですか?」
国峰に笑いかけながら彼女が問う。笑わない視線が刺さる。外側の皮を破って、内へ。
「……知り合い?……ああ、そう。知り合い」
傷口から綻びかける表皮をなんとか取り繕った大園を、国峰のアルカイックスマイルが追い詰める。
「……知り合いなんて酷いな。俺と優一さんはオトモダチでしょう?」
オトモダチ、と国峰は勿体ぶって言い、ね?と首を傾げた。かあっと頭に血が昇る。
「……お友達ですか?」
「そうなんです」
何も言えない大園の横で、彼女は怪訝そうに問い、国峰は不自然なほど綺麗な笑みを浮かべ、身を屈めて彼女に視線を合わせた。近づく距離に、彼女の頬が微かに赤らむ。
「優一さんとは最近仲良くなったんです。ね?……でも課長さんとは知らなかったな」
秘密主義なのかなとこちらを流し見た目の中に、明確な反抗心を見る。オトモダチ、秘密主義。名前で呼ぶなと言ったはずだ。バレるような言動はしないという約束を真っ向から違える国峰の態度に、苛立つ。
「……別に秘密主義なわけじゃないよ。仕事の話なんてしたことなかっただろ?……知り合いの知り合い。酒の趣味が会って何度か飲みに行ったんだよ。飲み友達」
だろ?と、最後は国峰を向き牽制の意味を込めて告げる。そういう線引きをしたはずだ。入ってくるな。俺の引いた線を、越えてくるな。こちらを窺い見る三白眼を目を逸らさずに見返しながら、だから嫌なんだと、そう思う。だから嫌だ。他人とぶつかるのは面倒だ。表面的に付き合っている相手とはぶつかりようがない。ぶつかる気にもならない。ぶつかるためには、感情をむき出しにしなくてはいけない。相手の不興を買ってまで自己主張するのは無駄が多い。だから、表面的で良い。自分の内まで理解されることを望まない。浅くて楽しい関係を結べれば、それでいい。それで良かったのに。昨日はなぜか、一歩踏み込んでしまった。国峰相手に、いつもの距離感を見失った。最初に線を違えたのはだから、自分の方だった。
その目で見るなと、そう思う。そんな目を、俺に向けるな。分かっている。あの時受け流さなかった俺が悪い。だから、そんな風に刺すような目を俺に向けるな。境界が、破れてしまう。表と裏が、混ざってしまう。それに抗するには、息を止めて防御を固め、睨み返す以外ない。苛立つのは、この状況を作り出した自分自身に対してだった。
永遠にも思える一瞬の後、先に視線を外したのは国峰だった。
「……そうですね」
以外なほどあっさりとした態度に拍子抜けする。呼び止めてすみませんでしたと身体を起こして告げた国峰は、頬を染めた彼女に失礼しますと会釈をした。そうしてすれ違い様、トーンを下げた声で囁かれた言葉に大園は喉を鳴らした。
「……彼女、ね」
すぐに振り向いたが早足の国峰はすでに遠く、決して振り向くことのない男の後頭部が、いくつかの頭越しにのぞいていた。
「……わー、なんか……素敵なひとですね」
横にいた彼女が呟く。蠢く群衆の中をぶれずに進む後頭部を見続けながら、思わず口をついて出た言葉は多分、本心だった。
「いや……そんないいもんじゃないよ」
「え?」
去り行く男が見えなくなり、隣の彼女に視線を戻すと、何か言いましたか?と問う無邪気な二重が見上げており、まごうことなく表の住人であるその姿に大園は深く安堵した。結局、そうだ。どっち付かずなのが一番悪い。中途半端だから、俺は国峰が怖いのだとそう思い、思った後ではっとする。そうか、怖いのか。俺は、どっちつかずの国峰が怖いのだ。裏にも表にも姿を見せる、あの男を恐れている。ならばそうだ。国峰の立ち位置をどうにかすればいい。表か、裏か。いつもの通り、どちらかに納めてしまえば良いのだ。気がついてしまえば簡単なことだ。何も、難しいことはない。ぱちりと一つ瞬き、表の華やぎを覗き込む。幼く愛らしい目がこちらを向いている。ここは表。国峰の無遠慮な視線に傷ついた表皮が、急速に修復する。内と外。裏と表。淫乱と純潔。苛立ちが、焦燥が、嘘のように消えてゆく。
「……二次会の場所、連絡来てる?」
何か言ったかという問いは聞こえない振りをして笑う。隙間風が吹いている。寒いわけがない夏の夜を肌寒く感じるのは気のせいだ。気のせいだと、言い聞かせる。
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