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第8話
「課長、その格好暑くないですか?」
通勤途中で買ったアイスコーヒー片手にデスクに着くとすぐにそう声がかかり、大園は軽く肩を竦めた。
「今日の訪問先、ちょっと堅いんだよ」
やや苦しい言い訳ではあったが、熱中症、気をつけてくださいねと笑う彼はそれ以上特に何も言わなかった。社内ではクールビズが推奨されてはいるが、訪問先によって服装を変える事はままある。だから、ネクタイやジャケットを持ち歩くのは普通だが、この時期朝からネクタイを締め、ワイシャツのカフスボタンまで留めて出勤することはほぼ無い。暑いは暑い。が、仕方ない。
一昨日、国峰に借りた服を纏ってリビングに戻ると、酷く暗い目をした男がソファに腰掛けてぼうっとしており、明るい光が差し込む真昼の室内が何故か暗く澱んで見えて、大園はしばしその場に立ち尽くした。明度によるものではない薄暗さはどこか不気味で冷え冷えとしており、鬱蒼と茂る林間のむっとした草いきれと肌寒さを彷彿とさせ、微かに眉を寄せた。不快な湿気と冷気の中、とんと歩みを進めると、足音に気づいた部屋の主が緩慢に顔を振り向けた。
ー……その服じゃ、隠れないですね
首、と国峰は言い、自身の首の根本をとんと指先で示した。うんと、曖昧に応じる。浴室の鏡で、自身の有様は大方確認済みだった。全身に及ぶ情交の痕が、皮膚を赤く青く染めていた。背中の方までは確認できなかったが、多分そちらも同じようなものだろう。あとは、腰のだるさと肩の痛みが、昨夜の名残をとどめていた。昨日の記憶は、薄靄の向こうの景色のようにぼんやりとしている。覚えていないわけではないが、はっきりとはしない。そんな感じ。薄靄の中で、国峰に抱かれた。甘やかな熱の通わない、暴力のようなまぐわいだった。
ー腕も、すみません
視線の先で、すっくと立ち上がった国峰が言い、ソファの背に掛け置かれた柔らかそうな服を手に大園に近づき、これ着れば隠れると思いますと、ブルーグレーのジャケットを差し出した。反射的に手を伸ばして受け取りながら、腕?と問うと、国峰は肘を折って顔の前に手を持ってきて、大園の前で自身の手首をとんと示した。
ー……手首、赤くなっちゃってるので
強く縛りすぎましたね。すみません。
国峰の声を聞きながら視線を落として確認すると、両手首の外側が確かに赤く剥けており、そういえばシャワーを浴びた時に少し滲みたのだったと、そんな事を思った。
その後は、国峰に追いたてられるようにして部屋を出た。もう帰りますよね?荷物はそこにまとめたんですけど、忘れ物、ないですか?服は返さないで大丈夫です。まとめ買いの安いやつなので。服を返すために、という口実も奪われ、さようならの一言で見送られてしまえば、大園が何を言う隙も余地も無かった。これで終わり。あっけない別れだった。家に戻る道々、これで良かったはずだ、俺もこれを望んだはずだと何度も言い聞かせてはみたが、胸の内の暗雲は晴れないばかりか一層厚みを増して垂れ込め、自身を納得させるための言葉はいつの間にか自問に変わり、結局俺はどうしたかったのだと呟いた大園の内ではまた、ひゅるりひゅるりと隙間風が鳴いていた。国峰からの連絡はもう、きっと無い。家に帰り着いた大園はその日一日を家のベッドで過ごした。ちょっと熱っぽいような怠さは多分に疲労が原因で、食欲も無いから動く必然性もなかった。全身の倦怠感のせいで少しの動きも億劫で、本やイヤホン、飲み物など、必要なものを全てベッドに上げて過ごす時間は酷く怠惰で、こんなだらけた休日は大学の頃以来かもしれないと、そんな事をふと思い、枕に頬を押し当てて脱力したまま、大園は口元だけで隠微に笑んだ。
パソコンが立ち上がるのを待つ間、キーボードの上で両手を休ませながら、ぴたりと留めたボタンの下の痕を透かし見て、あいつはもう友達ではない、と胸中に独りごちる。もう、ただの友達とは言えない。大園自身がそれを望み、結果としてその通りになった。裏からやってきて表に顔を覗かせていた国峰を、希望通り、裏の世界に封じ込めた。それなのに、全然気分は晴れなかった。
国峰の部屋で目覚めた時、何故かとても気分が良かった。身体は驚くほど怠くて、心臓の拍動に合わせてずきずきと頭痛がするのに辟易はしたが、それでも。不思議と気持ちは軽やかだった。身体の底に重く沈んでいた何かが綺麗に浚われたような、そんな身軽さだった。心が、軽い。ずっと担いできた荷を一つ下ろしたような、そんな身軽さ。実際、そうだ。あの日、国峰の内にずっしりとした質量を持って居座っていた荷物が一つ、はらりと解けて落ちたのだ。その荷の中身は知っていた。知ってはいたが、この荷を下ろせるはずなどないと、そう思っていた。下ろせるはずのない荷物が一つ、解けて、開いた。
藤沢夏生は大学の同級生だった。その名に相応しい、真夏の太陽のような明るさを持った男だった。後ろ暗いところなど一つもなく、この世の光を全て詰め込んだような、そんな男だった。豪胆と繊細を併せ持つ彼は否応なく人を惹きつけ、夏生の周りではいつも、笑い声が絶えなかった。その夏生と、大園はどう言うわけが仲が良かった。付き合う内に共通の趣味は増えたが元はそんなこともなく、最初につるみ出したきっかけはよく覚えていない。ただ何となく、馬が合ったのだろう。夏生と大園の仲の良さはすぐに他も認めるところとなり、夏生の友人といえば真っ先に大園の名が出るほどで、夏生もそれを否定しなかった。
ー気の合う奴が居なかったらどうしようかと思っていたけど、同じクラスに優一がいて良かったよ
夏生なら気の合う相手がいないなどという事はあり得ないないだろうと笑って応じながら、満更でもない喜びに胸を高鳴らせていた。付き合いの長さなど関係なく、大園自身が、夏生との共鳴を強く感じていた。得難い友情を得たという喜びは格別だった。ふざけて遊びまわるのも将来を語らうのも、夏生とであれば何もかもが面白かった。彼の存在は未知への架け橋だった。それが、友情であるうちは良かった。夏生と大園の熱量が等価のうちは、その関係は燦然と輝く光だった。夏生は頭がよく回った。話をしていて退屈するということは一度もなく、語らいが尽きず飲み明かすこともしばしばで、いつ眠ったかも分からないまま、目覚めるとどちらかの家で思い思いに横になっているということも日常だった。光。夏生は大園にとって、純然たる光だった。
だから、その友情を友情のままで留め置くことが出来なくなったのは一重に大園の非だ。夏生は、光でしかあり得なかった。光源に影はない。影の根は、大園の中にしかなかった。
ー……優一とはずっと、一生の親友でいたい
卒業の日。地元に帰ることが決まった夏生が告げた言葉に、大園は笑顔で頷いた。俺も同じ気持ちだと、心にもない言葉に偽りの喜びを乗せて応じると、夏生は弾ける笑顔をこちらに向けた。これで、良かった。良かったはずだと、写真を撮ろうと肩を組む夏生の体温に心臓を波打たせながら思う。影は影のまま背中に隠して、見えないように切り離して。友情は、嘘ではない。夏生に感じる友情は本物なのに、それと同時に、劣情を覚える。純粋な友情の前に、微かな劣情はあまりにも不誠実だった。裏切りだった。だから、隠す方がいい。
卒業から五年経ち、夏生から結婚の知らせが届いた。式にはもちろん参列した。地元の幼なじみだという彼の妻は、柔らかな中にも芯のある、素敵な女性だった。
後悔は無い。間違った事をしたとは思わない。自分なりには納得をして選んできた。選択肢は幾つもあった。玉砕覚悟で気持ちをぶちまけたって良かったし、深入りせずに離れるという方法もあった。けれど、どちらも取らなかった。それはきっと、確かにここにある夏生に対する友情を裏切ることになるから。劣情を感じた時点で一つ、大園は彼を裏切っていた。だからもうこれ以上、二人の関係を傷つけたくはなかった。後悔は無い。でも。それでも。悲しみはあった。誰にも届くことのなかった初恋が、哀れで、悲しい。親友でいたいと言った夏生の真剣を、偽りによってしか受け止められないその事実が、辛くて、悲しい。本心では分かり合えない事が、虚しくて、悲しい。分かり合えない不幸を、この悲しみを、知るのは自分だけでいい。大切な人には笑っていて欲しいと思うから。だから。夏生が親友でいたいというのなら、俺は死ぬまで、お前の親友で居続けよう。そう、誓った。
解けて開いた荷の中では、藤沢夏生が眠っており、満点の星空に浮かぶ青白い月が、柔らかな寝息を立てる美しい彼と、その隣で嗚咽を堪える大園を静かに見守っていた。罪の記憶だ。封じ込めて胸の奥深くに沈めた、罪の記憶。その記憶が夏の日差しの下に晒されていた。けれども、それを眺める大園の内部は驚くほどに凪いでおり、だからこそ、身が軽かった。夏生が好きだった。友として、そして、それ以上に。それを思い知る事は苦痛だった。あの日までは。あの日、あの時、国峰のベッドで目覚めるまでは。どんな心境の変化があってのことなのかは、自分でも良くわからない。説明は出来ないがただ、あの日目覚めた瞬間、グレーのタキシードに身を包んだ夏生の幸せそうな笑顔が脳裏に浮かび、そういえば結婚式の日、彼はこんな顔をしていたのだったと国峰は思い、その笑顔を直視できなかったあの日の自分を想い、今すぐもう一度、あの日の夏生に会いたい、会って今度こそ、心からのおめでとうを伝えたいと、そう思った。そうして、柄にもなくはしゃいだ気持ちのまま、ぎしぎしと軋む身体を起こしてシャツを羽織り、ベッドルームを出ようとしたところで、ペットボトル片手に壁に肩をもたせ掛けて佇む国峰を見つけ、大園は息を飲んだ。白い光に溢れた室内で、色の白い裸の上半身を惜しげもなく晒した国峰の姿はちょっと現実離れした美しさで、思わず見入った。夜闇に浮かぶ艶めかしい白も良いが、それよりもずっと。静謐で、健やかで、美しい。花や風景やアートではない。人間を美しいと思ったのは、人生で二度目だった。多分、それで。少し口が軽くなった。
ー普通を望まれるなら、俺は普通を見せ続ける。それが、俺なりの誠意
言葉にしてみて初めて、分かることがある。誰にも言ったことのなかった想いを、決意を、国峰に告げた。口にしてみて初めて、自分がどうしたかったのかに気がついた。そうだ。そうだったのだ。裏切りたくなかった。もうこれ以上、誰のことも。誰のことも裏切りたくないから、みんなの望む自分でいようと、そう思った。そう、決めた。だから、理解を求めない。理解されたいと、思ってはいけない。隠し通す事が、偽りであっても普通であり続ける事が、自分なりの誠意。正しいかどうかなんて分からない。けれど、間違っているとも思わない。ただ少し、悲しいだけ。真実の自分はどこにもいない。それが、虚しくて、悲しい。
国峰は、と大園は思う。国峰は、自分とは違う。
ー……普通じゃなくたって、分かってもらいたいと思うのはいけないことですか?
正しいかどうかは分からない。分からないけれど。
いけないこと、ではない。いけないことで、あるはずがない。すごいなと、そう思う。すごく、怖いはずだ。もしも受け入れられなかったら、もしも、離れていってしまったら。大事な相手であればあるほど、伝えるのには勇気がいる。もしもがいくつも頭を過ぎり、不安で、苦しいはずだ。すごい。物凄い勇気だ。でも、でもきっと。零れるほどの不安を乗り越えて、身が干上がるほどの勇気を振り絞って、もしも。もしも分かってもらえたなら、それはすごく幸せだろう。自分を、自分自身を、知ってくれる人がいる。分かってくれる人がいる。それ以上の充足があるだろうか。それ以上の喜びがあるだろうか。
だから、素直をぶつけることの出来る国峰に惹かれる。本心を晒すことを迷わない国峰に、希望を見る。晒される本心も、分かりやすい怒りも、全部。全部が新鮮で、眩い。内から溢れ出した想いそのままの言動はどれも、きらきらと輝いて美しい。隠さない、嘘をつかない彼ならば、満たされる術を知っているのかもしれない。この虚しさを満たす方法を、満たす何かを、持っているのかもしれない。もっと、知りたい。もっと知りたいと、そう思う。国峰のことを、もっと知りたい。国峰春人という生き方を、もっと、見ていたい。
PC画面が起動すると自動的に手が動く。PCメールのチェックが数件。急な要件はなし。早急に返信の必要なメールもなし。添付されてきた会議資料にも軽く目を通したが、目新しい話はなし。トップ画面上にデジタル付箋で貼り付けていた予定の内、昨日までに終えた事務処理作業の削除。処理待ちの事務仕事の内、今日済ませられるものの確認。それだけを一気に終えると、デスクトップのキーボードを脇に押しやり、デスクに置かれた書類に目を通す。数はそれほど多くはない。デジタル化が叫ばれる昨今ではあるが、完全なペーパーレスにはまだ時間がかかりそうで、こういった仕事はゼロにはならない。一つ一つ目を通しながら、課長印の必要な書類は別に分け置き、数枚まとめて印を押した。手元の作業を終えると、次には顔を上げて在席管理用のホワイトボードを確認する。大阪出張1名、戻りは明日。なら明日はきっと、みたらし団子が届くはずだ。機械的に進めていた作業に雑念が交じり、大園はちょっと動きを止めた。大阪には大きな支社があり、時々出張がある。何度目かの出張の時、土産に困って支社の人間におすすめを聞くと、みたらし団子が旨いと教えられたのだ。みたらしといっても、団子の生地に餡が包まれた駄菓子のようなものなのだが、これが結構好評で、それ以来、課の人間が出かけていく度にみたらし団子を買ってくるようになった。だから多分、明日の土産もみたらし団子だ。そう考えて大園は唇の端を僅かに上げて笑み、朝のルーティーンを終えた。
コーヒー片手に窓の外に目をやると、今日も朝から太陽はギラギラと攻撃的で、眼下の街路樹は通りに濃い影を落として項垂れていた。暑さにやられているのは何も、人間ばかりではない。国峰も、今日の午前中は客先周りで外に出なければならない。アスファルトが散々に熱せられた午後よりは数段ましだが、それでも骨が折れる。まして、この恰好では猶更だ。一人であれば腕くらい捲っても構わないのだが、今日は引継ぎのため部下と二人で回らなければならない。手首の擦り傷はもうほとんど目立たなくなっており、気にしなければ気にはならないのかもしれないが、もし何か訊かれたらと思うと、その勇気もない。手首の傷に気づかれてしまったら、ネクタイで絞った襟の下の真っ赤な痕や、全身に散った国峰の痕跡にも気づかれてしまうような気がして、そわそわする。不思議な感覚がある。むず痒い感覚。大園のこれまでの相手は皆、行儀が良くて分別がある大人ばかりだった。だから、こんな風に痕がつくような構い方をされたことはほとんど皆無で、昨日は、一番濃く残る鎖骨の上の赤色がシャツに透けないかを鏡の前で確かめ、ワイシャツの生地は意外と透けないのだと知って感心し、ふと我に返って赤面した。国峰のことを想うと胸がどんよりと重いのに、何か浮き足立ったような心地がする。その存在を異物と断じながら手放す事が出来ない。この気持ちが何なのか、分からないほど野暮ではない。野暮ではないが、素直にそれと認めるには、大園の内はこの十数年でねじ曲がりすぎていた。
ただ一つ、言えることは。
罪、ではない。この気持ちは、罪ではない。この華やぎが、罪であるはずがない。
もっと知りたい。もっと、近づきたい。その心に。その、魂に。触れたい。
そう思うのに。どうすれば近づけるのかが分からない。素直に気持ちを伝えるやり方が、よく分からない。分からなくて、もどかしい。
“知られないこと”に腐心し続けた37年の怠慢が、ここに来てずしりと、大園の肩にのし掛かっていた。
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