バーテンダーの男

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 ほっそりした身体に大きな瞳、長い首から連なるなで肩が、バンビを惹起させる若い男性バーテンダーは、私に背を向け、長い腕を伸ばし、上の棚から瓶を取った。背中から腰のラインには、まだ余分な肉が全く付いていない。引き締まったお尻も、魅力的だと思った。  その日、私は、お酒を飲むつもりはなかった。ハイヒールのせいで疲れた脚を休めたくて、仕事帰りに以前行ったことのある喫茶店に入ったら、看板も店名も同じまま、バーに様変わりしていたのだ。  飴色に艶光るカウンターは、喫茶店の頃と同じだったが、陶器やコーヒー豆の瓶が並んでいた棚には、色とりどりのリキュールの瓶が隙間なく並んでいた。  繁華街のバーの営業にはまだ早い午後6時過ぎに、ダークスーツにノートパソコンを携えた、いかにもキャリアウーマン然とした女が一人で入ってきて、驚いたのは、バーテンダーの方だった。「いらっしゃいませ」と言いながら、大きな目を更に見開いた。 「あのー、こちらのお店って、確か以前は喫茶店だったと思うのですけど……」 「あー。確かに、前は喫茶店でした。半年前にバーにリニューアルしたんですよ」  困惑気味の私の言葉に、合点がいったらしい。彼は、冷たいお水とおしぼりをカウンターに出してくれた。 「お仕事帰りですか? 喉、乾いてません?」  彼は小首を傾げてにっこり微笑み掛けてきた。  普段の私なら、いえ結構、と、踵を返してバーを出ていたと思うのだけど、彼の可愛い笑顔に引き寄せられて、頷きながらスツールに腰掛けた。 「何か作りましょうか?」  にこにこする彼に、私は纏まらない頭で曖昧に答えた。 「ええと、今日は、あんまりお酒は飲みたくなくて。でも、アイスコーヒーっていうのも、せっかくバーに来たのに味気ないし……」  彼は、もう一度大きな目を見開いた。 「あ、じゃあ、ノンアルコールのカクテル、作りますよ」  流れるような指先で、カクテルを作り始める。シェイカーを長い指で優しく包み、ゆっくり振り始めた。真剣な表情が格好良かった。 「どうぞ」  私の前に置かれたカクテルは、うっすらピンク色で、グラスの一番下に赤いシロップが入っている。そうっと口を付けたら、甘酸っぱくて、ミルクが優しくて、疲れた身体に染み渡った。 「はぁあああ~、生き返る~」  新橋の赤ちょうちんでビール飲んだ中年サラリーマン男性のリアクションかよっ!と、内心、自分に突っ込みながら、頬が緩むのを止められなかった。バーテンダーは、右目を少し細めて微笑んだ。 「荷物重そうなのに、ハイヒールだし、疲れますよね」  彼は、カウンターから身を乗り出して、私の足元を覗き込んだ。私は、若い男性に脚を見られてどぎまぎし、いつの間にか膝が覗いていたタイトスカートの裾を引っ張りながら、誤魔化すように明るい声でお礼を言った。 「佐田くん、ありがとう」  彼の名前は金色の名札に書かれていたから、スツールに掛けた時から知ってはいたが、この時、初めて名前で呼びかけた。 「どういたしまして、ナオさん」 「えっ! ……佐田くん、なんで私の名前知ってるの?!」  私が目を丸くしたら、彼は、肩を竦め、事も無げに言った。 「さっき、ジャケット脱いだじゃないすか。内側に書いてあったから。女性でジャケットに名前入れてる人って珍しいなぁ、と思って」 「すごい! ねぇ、他に私について気付いたことある? 教えて?」  マジシャンを見詰める子どもみたいに、私はカウンターに身を乗り出した。 「身長は、170はなくて……、165ぐらいかな。良い会社でバリバリ働いてる。インドアスポーツの趣味がある。童顔だけど30代にはなってる。独身」 「全部当たってる。でも、なんで独身とかインドアスポーツとか……」  私が首を傾げながら呟くと、 「良いスーツ着てるし、高そうなアクセサリーしてる。けど指輪してない。だから、旦那さんに買ってもらったんじゃなくて、自分で買えるぐらい稼いでる。てことは、そこそこ長く働いてるはずだから、30代になってそう。でも、体型はシュッとしてるし、色が白いから、日焼けしないスポーツしてるんだろうと思って」  彼は、マジシャンが種明かしをするように両方の手を開いて私に見せた。  私は、まじまじと、目の前のバーテンダーを見詰めなおした。彼は、少し耳を赤くしながら、口ごもった。 「そんな見ないでくださいよ。やだな。客商売してれば、これぐらい、誰でも分かりますって」  カウンターの反対側の端で、別のお客さんを接客し始めたマスターと思しきベテランのバーテンダーが、あるリキュールの瓶を取ってくれと彼に頼んだ。彼は、「はい」と短く答え、後ろを振り返り、上の棚から瓶を取った。  手足が長くてほっそりした身体つきが、まだ少年ぽくもある。あの小さいお尻を揉んだら、どんな感触だろう、と、エロティックな想像をして、私は1人、頬を赤らめた。お酒が入っていないカクテルを啜っているのに、酔ったみたいだ。  彼は、カウンターの中で、片付け物をしたり、後から入ってきた他のお客さんの注文を聞いたり、忙しそうに立ち回っている。こちらを見ないのを良いことに、私は、彼が休憩に入るまで、視姦するのをやめられなかった。  私は、マスターに訊いた。 「すみません、お手洗いどこですか?」  マスターは、グラスを拭いていた手を一瞬止め、申し訳なさそうに言った。 「ごめんなさい、店内に無いんですよ。非常口から一度外に出ていただいて、右手になります」  私は昔、この店に来たことがあるから、本当は、聞かなくても、洗面所の場所は知っていた。口実が欲しかっただけだ。休憩に入った彼が、非常口から裏口に出て行ったのを、私は見ていた。  洗面所に行く風を装って、悪戯を思いついた子どものような足取りで、私は、非常口のドアを開け、すぐに彼の姿を見つけた。  彼は、壁に凭れてしゃがみ込み、気怠げに煙草を吸っていた。まるで、私が裏口に出て来ることを見透かしていたかのように。蓮っ葉に、唇の片側だけを釣り上げて薄く笑い、私を見上げた。  彼の豹変ぶりに私が戸惑い、その場に固まっていたら、彼は煙草の火を消して立ち上がり、肉食動物のようなしなやかな足取りで、私に歩み寄った。そして、唇の温度が感じ取れるほど、私の耳に口を寄せ、低い声で囁いた。 「俺が欲しいんでしょ」  次の瞬間、強い力で背中を押され、洗面所に押し込まれた。  何が起きたか把握するより先に、背後で鍵を掛ける音がした。驚いて振り返ると、彼が立っていた。長い指先が私の顎を掴んだ。噛みつくようにキスされて、目を閉じる余裕もなかった。煙草の味の舌が捻じ込まれ、その生々しい感触に、目を瞑った。  彼の手が左胸を掴んだ瞬間、膝が崩れそうになった。恐ろしいことに巻き込まれかけているのがわかった 「やめて」  私は告げた。彼は無視して左膝を私の膝の間に押し込んだ。スカートの捲れた太腿を撫でられながら、その靴、と言われて私は視線を向けた。 「似合ってるね。ナオさんが店に入ってきた時から、いい脚してるなぁと思ってた」  高熱のようなふるえが背骨を伝った。 「やめて。そんなんじゃない」  鳥肌の立った脚に、ゆっくりと指が添っていく。それでも、さすがにそれ以上するわけない、と思っていた。  彼がズボンのベルトに片手を掛けて引き抜いた。腰を抱きかかえられて、スカートを捲られストッキングを引き下ろされそうになり、ようやく本気だと悟った。 「本当に、やだ」  首を振ると、素早く後ろに腕をひねられて、私はバランスを崩した。  とっさに洗面台に片手をつく。  下着が太腿を滑り落ちると、背後からゆっくりと腰を寄せられた。  熱い鉛が押し入ってきたみたいで、あまりの窮屈さにうめくと、彼は私の足を開かせて探るように角度を変えた。かすかな痛みと熱が、膿んだように下腹部を覆った。 「ひど、い」吐き出すように言うと、 「こうして欲しかったんじゃないの?」 「もう、帰る」  と訴えると、彼がいきなり深めに突いた。腰骨とお尻がぶつかって弾けるように鳴り、抑制が効かずに声が漏れた。まだ、火傷のような痛みが強い。  右手が前に回ってきて、指の腹で潤んだ周辺を擦られると、刺すような快感が襲ってきた。ふくらはぎが攣りそうになった。次に身体が揺れた瞬間、大量に涙が溢れ出た。伏せていた顔を上げたら、鏡越しに彼と目が合った。  彼は、顔を顰め、無言で、私の中から、彼自身を引き抜いた。  わけが分からないまま壁に寄りかかる。解放されたばかりの太腿の奥にはまだ何か残っているような気さえしたが、こんな恰好のままで居たくない。震える指で、足首に引っかかっていた下着とストッキングを引き上げた。  落ち着かなければ。私の顔は、涙でぐちゃぐちゃだし、呼吸は大きく乱れ、まだ身体中が震えている。彼も、自分の服を直している。   「ナオさんさぁ、向いてないよ。こういうの。もう、二度としない方がいいよ」  少し怒った口調で言いながら、乱暴にペーパータオルを数枚引き抜き、私の涙を拭き始めた。私は彼に拭かれるのに任せて目を閉じていたが、ペーパータオルがゴミ箱に放り込まれる音が聞こえたので、目を開けた。 「あ~。目、充血しちゃったね」  私の頬に残ったペーパータオルの切れ端を取り除きながら、彼が訊いてきた。 「さっき俺が作ったノンアルコールカクテル、なんて名前か、教えてないよね」 「……聞いてない。何て言うの?」 「雪うさぎ、っていうの。ナオさんって、ハイヒールなんか履いて武装してるけど、お店のドアからひょっこり覗き込んできたとこ、もろ、草食の小動物ぽかったよ。目が赤いと、ますます、うさぎみたいだ」  彼の目からは、肉食動物のような獰猛さは、消えていた。  カウンターの中でも、裏口でも、彼には、周りから求められる「バーテンダー」像を演じている作為の匂いが漂っていたが、素の彼は、お酒のことを勉強し、美味しいカクテルを作りたいと考えている普通に真面目な青年なのだろう、と、思った。  彼は、シャツのボタンを一番上まで留め、ネクタイを締め直した。少し乱れた髪を撫で付けながら、私と目線を合わせないまま呟いた。 「ごめんね、ひどいことして」 「私こそごめんね。いやらしい目で見てた。初対面の男の人に対して、不躾だったよね」  私も彼に謝り、彼の髪に付いたペーパータオルのかけらを指で取り除いた。  彼は、少し拗ねたように口を尖らせ、私のされるがままになっている。顎の線にはまだ少年のようなあどけなさすら残っていることに、気づいた。 「そうだよ。ナオさん、露骨にエロい空気出すんだもん。なんだ肉食系かよ、だったら食ってやるよ、って思ったら、やっぱり、狼に襲われたうさぎみたく震えて泣き出すんだもん。なんか、俺、悪者みたいじゃん」  隙の無いバーテンダー姿に戻った彼は、洗面所のドアを開け、先に私が外に出るように促した。ドアを通り抜けながら、彼と目が合った。 「雪うさぎ、ありがとう。美味しかったよ」  私が彼の小鹿みたいな黒く濡れた瞳を見詰めながら言ったら、彼は、右目を細めて、くしゃっと照れたように笑った。 (※この小説におけるラブシーンは、創作活動の修行・練習の一環として、島本理生さんの「RED」を、ほぼほぼ引用の形で、使わせていただいていることをお断りいたします。)
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