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Ⅰ.珈琲
透き通った綺麗な空気が私の部屋に入り込む。今日は幸運にも快晴だった。
私にとって楽しみな日。京王井の頭線の下北沢駅から数分にある小さな店で弾き語りをする日だった。
ほんのり香る大人な珈琲の匂いと少し暗めの照明の中で演奏する事に憧れ、店のオーナーを尋ねて演奏させていただくことになった。
今日まで何回練習したことか。
どれだけ勉強をサボったことか。
いや、それは考えないようにしよう…。
そういえば明日は大学だったような。
スタジオで数時間練習をして夕方の三時に現場に向かい、準備を始める。
大丈夫だ、大丈夫。と自分に言い聞かせながら革製のハードケースを開く。中には黒と赤で染ったアコギがある。
値段は聞かない方がいい。
今日の客の数は満員だった。
さて、この緊張をどう無くそうか。
深呼吸をしていると、一人の男性と目が合った。ふにゃっとその人は笑顔になった。
軽い会釈を済まし、ステージへ。
淡い恋の歌を描いた、数年前に作った私の自信作から、最近ハマっている「La passion」というシンガーソングライターの曲を演奏する予定。
私がステージに上がると周りが一気に私を見る。
そりゃあそうだ。私は本日の目玉商品だ。
緊張なんて言葉をすっかり忘れて、目の前にあるマイクだけを見ていた。
演奏が終わった瞬間、大きな拍手と歓声が響き渡った。
ノーミスで弾けて、大成功で、一気に体が軽く感じた。 爽快感がたまらなかった。
こんな経験をさせていただくことは滅多にないことだから、本当に嬉しかったし、「頑張ったね、自分」と何度も唱えていた。
夕方、店を出ようとすると、演奏前に目が合った男性が話しかけてきた。
「あの…もう帰られるんですか?もし良かったらお話でもしませんか…あっ!演奏とても良かったです!」
「少しだけなら大丈夫ですが…ありがとうございます。」
きっと、私より年上だと思う。
学生感はないから、社会人。
少し茶髪で、ストレートのツーブロックヘアだった。男性なのに、とても綺麗な人だった。
彼は砂糖なしの珈琲で、私は紅茶を飲んでいた。
…謎の沈黙。
あれ以来、全く話をせず皿とカップが当たる音しか聞こえない。
流石にこのままになりそうだったので、話しかけた。
「あの…お名前は…」
彼がはっと私を向く。
「あえっと、前原樹です。なんかごめんなさい!普通こういうのって僕から話しますよね…」
「いえ!全然そんな事ないです!峯岸結衣です。昔からギターを弾くのが好きで、こうして聞いてもらえるの…嬉しいです。」
見た目と真逆な性格で、彼が面白く感じた。
それから少し彼と話した。
初めはまだ初々しい様子でお互い話していたけれど、次第に同じ曲が好きだったりと意気投合して話し込んでしまっていた。
「あ…!私、もう帰らないと…」
「そうだったね!じゃあ家まで送るよ。」
一緒に店を出て、私の家へ向かう。
スーツ姿の彼と大学生の私。
はたから見たら兄弟にしか見えないのだろうか。
「樹さん、樹さんって…彼女とかいらっしゃらないんですか?」
「樹さんじゃなくって、樹でいいよ。因みに、前までいたけど…今は完全独身。笑笑30手前なのに将来が不安だよ笑笑」
「そうなんですね。てっきり彼女さんいると思っちゃってました。笑笑 樹めっちゃ良い方だから。」
「ん〜。性格良くないよ。笑 …でも恋なんてもう出来ないんだろうなぁ。」
「え?どういうこ…」
「…あっ空見て!」
辺りはもう真っ暗になっていて、星空が見えていた。
こんなに綺麗な星空なんて見たことがない。
でも、綺麗だけじゃない。
切ないようにも見えた。
煌びやかな星がどこか違った。いつもと同じなのに。
彼が言おうとしていた事はなんだったのか。
全く分からなかった。
でもこれだけは分かったことがある。
彼の心の奥には深い苦しみがあって、誰にも解き明かせない何かがあるという事を。
それでも私はどこか彼に心が向いていた。
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