未来への旅行

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未来への旅行

次の日、人気のない家で独り朝を迎えた。 顔を覗き込んでくる小さな男の子もいない。 階段をおりる。包丁がまな板に当たる音はせず、もちろん台所には着物を着た女の人はいない。 家を掃除してくれていた坊主頭の子も、だるそうにして寝そべっているスーツ姿の男の人も、化粧をするために洗面所を独り占めする女の人も。 ふとした時ににんまり顔で現れるあの人もいない。 私の身体の一部が欠けてしまったようなひどい喪失感があった。 だけど、これから大切な人が久しぶりに帰ってくる。 玄関が開く音がした。私は駆け足でその人を出迎える。 「ただいまー」  七夏おばさんは約束通り帰って来た。もしかしたら皆がひょっこり戻ってくるかもしれないと期待していたが、そんなわけはなかった。自分達の時代で幸せに暮らしているのだから。 「おかえり。一週間のバカンスはどうだった?」 「愛しのダーリンと最高の日々を過ごせたわ。それより」  七夏おばさんは私の顔をじっと見てにんまり笑った。 「顔つきが全然違うわね。良いことでもあった?」 「知っているくせに。良いことだらけだった」  七夏おばさんは居間の隅に置かれた座椅子に腰掛けた。昨日まで琴子さんが座っていた場所。二人の姿が重なる。 「あんたの家族、素敵な人だったでしょ?」 「うん、想像以上にね」 「それにしても、こんなことってあるのね。狐につままれたみたい」 「非現実的な体験だった。亡くなった人やいなくなった人に会えるなんて。よくわかったよ、おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんもどんな人なのか。皆、お互いにずっと一緒に暮らしたかったんだ。それは、現実で叶うことはできなかったけれど」 「あんたも?」 私は少し照れくさくなりながら答える。 「……私も。今思えば一週間は短くて、これからもずっと一緒にいたいと思ったよ」 「そっか、良かった」 「でも、よくあんな話信用して私を置いていけたね」  すると七夏おばさんは俯いてしまい、珍しく元気のなさそうな顔をした。 「どうしたの? 何かあった?」 「ごめんね、あたしはあんたの親にも家族にもなれなかった」  突然そう謝られ、身が硬直した。なぜそんなことを言うのだろう。 「あたしの力じゃあんたは変えられなかったから」 弱音なんて七夏おばさんらしくない。それに、これは私自身の問題だった。おばさんはちっとも悪くないのに。 「そ、それは違うよ、私が七夏おばさんに甘えっぱなしだったから……私が悪いの」 「黙っていたことがある」  七夏おばさんは膨らみのないお腹を摩った。その瞬間なぜ座椅子を購入したのか、琴子さんと姿が重なったのかがわかった。 「あたし、実は妊娠してるんだ。二ヶ月になる」  私はあっけにとられて口を開いたまま、黙って七夏おばさんの話に耳を傾けた。 「一週間前、和詩君が家に来た時ね、彼は私の子どもの戸籍謄本を持ってきた。偽装工作とは思えなかった。だってあたしと彼で名前を決めていて、それにまだ誰にも妊娠したことを言っていないから。出生日も出産予定日に近いの。だから和詩君が未来から来たってことはすぐに信じられた。あとは、あんたの家系図も見せてもらった。和詩君は自分が歌子にとって何者なのかも教えてくれた。それからこう言われたの」  歌子を変えるために、ここで一週間家族と過ごす時間をください。 「それに委ねるしかなかった。あんたが前向きになるためには、置いていくしかなかった」  未来から来た証明は、すでに七夏おばさんにしていたのだ。私の家計を父から聞いていて知っている彼女は、人物当てゲーム開催の承諾者となった。 「お父さんとお母さん、どんな人だった?」 「喧嘩ばかりしていたけど、とても良い人だった。私が子どもで良かったって。例えバラバラになっても会いに来るって」 「……高校にあがるまで、二人はあんたが気づかないように陰ながら成長を見守っていたんだよ。あんたが中学の頃、留守を見計らって家にも来ていた。あたしに預けたから心底心配だったんだろうね。二人が別れたきっかけはあんたが溺れて死にかけたからだと言っても許せなかった。もう自分達の不注意で失いかけたくないから、あんな思いはしたくないから……勝手だと思わない? あたしだってあんたがいなくなったら立ち直れないわ。だから言ったの、あの子はあたしの娘だから渡さない。十五になったらここへは来ないでって。酷いこと言った。それっきり二人は来ていない」  武律さんと姫音さんは、私がいない時に家へ戻ってきていたのだ。必ず会いに来るという約束は果たされていた。それをただ、私は知らなかっただけ。私の元に来なくなった原因は七夏おばさんだとわかっても、怒りは全くなかった。 「子を誰かに取られるって、すっごく怖いのよ。だけど、あたしがあんたを両親から引き離したのは、間違っていたわ。ごめんね」 「七夏おばさん、子どもがいなくなる怖さは、私もわかった」 「でも、私の身勝手な感情で…」  肩を落としている七夏おばさんに近寄り、私は響太郎君を真似て抱き締めた。 「こうすると安心するって、おじいちゃんが教えてくれたの。七夏おばさんは私の家族だよ。本当にありがとう。もし、またお父さんとお母さんが来たら、会わせてほしい。私はもう大丈夫だからこれからは自分の幸せを考えて。妊娠おめでとう」  七夏おばさんはうん、うんと頷いて何度も謝った。それから私を思いっきり抱き締めてわんわん泣いた。 ねえ、未来の私。 私は泣くことも怒ることも笑うこともできる。 紛れもなく家族のおかげだ。 もう二度と感情を失わない、そう強くなることを決めた。 あなたが未来で人らしく幸せに生きていることを祈る。  二人きりの家の中に、私達の泣き声だけが響いていた。                   小さい頃、川で溺れた私を助けたのはお母さんだったらしい。私を川岸まで引き上げた後、お父さんが病院まで運んでくれて、今度は仔猫を助けに再び川へ飛び込んだ。  仔猫が助かることはなかったけれど、冷たい川の中で死ぬことはなく、お母さんの温かい手のひらで眠りについた。  これが、昔あった出来事だ。  溺れたこと自体を忘れている私、両親の離婚のきっかけが自分だと思い出させないよう、七夏おばさんは固く口を閉ざしてくれていた。  亡骸は河川敷に埋められたというが、謡君が言っていた猫の墓は、その子のものだったのかもしれない。 未来の私が何かのきっかけで猫のことを思い出して、そのことを謡君に話したのだろうか。  私は謡君がいた辺りの地面に石を置いて、それに向かって手を合わせた。 「行ってきます」  八月下旬。夏休みの終わり。  彼との約束通り、勇気を出して登校した。  朝早い通学路にはたくさん生徒が歩いていて、私はその中の一員となる。もちろんマスクなどしたり、下を向いたりなどしない。七夏おばさんの作ってくれたお弁当を持って堂々と歩く。  心臓が騒いで仕方がない。  教室に入ると、クラスメイトは私を一瞥するだけで何もしてはこなかった。  きっと名前も覚えられていないだろうな。  三回程度しか座っていない自分の席に座る。周囲のがやがやと騒がしい音は苦手だが、じきに慣れてくる。  皆は夏休みの思い出話で盛り上がっている。でも、きっと私以上に奇想天外な出来事を体験した人はいないだろうなと、少し得意になってこっそりにやけた。 「何、笑ってんの?」  驚いて顔を上げると、前席の男の子が後ろを振り返りにやけ面の私を凝視していた。  金髪ではなかったが、赤い眼鏡越しの目は見覚えがあった。まだ声変わりをする前だからか、声が高かった。 「……別に。名前、なんて言うの?」 「あ? 雅楽代和詩(うたしろかずし)だけど」 「そう、おはよう」  まだ下手くそな笑顔で挨拶をする。 「は? 順番が逆じゃね? 普通は挨拶が先だろ」 「良いじゃない。ほら、先生来たから前を向いて」  そう言うと未来の旦那さんはしぶしぶ前を向いた。その背中に呟く。 「ありがとう。よろしくね、和詩」  結婚したら性が変わって雅楽代歌子になる。うたが重なって変な名前だけど、悪くない。  あなたがいれば、何でも大丈夫な気がする。  もう独りじゃない。未来と過去に私の大切な家族がいる。  これから楽しいことがたくさんやってくる。私は今からそんな未来がわくわくして仕方がない。家族になれる日が待ち遠しくてたまらない。  教室内で誰にも気づかれることなく、私は心の底から笑っていた。 未来の私もきっと。  起立。  クラス委員長の起立の号令で、私は元気に立ち上がった。
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