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和詩
すっかり孤独に飲み込まれた。
暗闇と一体化したといってもいい、私を脅かすものも虐げるものもいつからか恐怖に感じなくなった。
無感情だった。愛すべき人と結ばれても、愛しい我が子に巡り会えても感慨がない。
心が鉄のように冷たい。
本当は心の底から笑ってみたい、温かみを感じたい。
それなのに、笑うことで罰を与えられてしまうような強迫観念に襲われて、嬉しいことがあっても口角が下がったまま。
鏡に映る自分があまりにも醜くて情けなくて、何度も拳で叩き割った。
どこで、間違えてしまったのだろう。
もっと人と関われば、外の世界と触れ合えば未来は変わっていた。
家族というものを、知りたかった。
家族を壊したのは私自身。
力もないのに猫を助けようとしたから。
ずっと忘れていた、家族が壊れたきっかけ。
河川敷にある猫の墓。戒めの象徴。
きっと大人になった今でも猫一匹救えない非力さは身に染みている。
だって、自分さえ救えないから。
夫と子は二人でどこかに行ってしまった。一週間ほどで帰ると言っていたが、このまま戻って来ないのではと疑う。
それでも仕方がないと思った。私は孤独に慣れているから、いつか愛想を尽かされる覚悟はあった。
いつの時代に戻れば、私は人らしくなれるのだろう。
今までに失くしたものをふと考える。
ヘアピンの数。
一度着ただけのシャツ。
カバンにつけたマスコット。
リップクリーム。
仔猫。
父と母。
失くしたものは、二度と戻ってこないと諦めていた。
でも、忘れた頃にふと戻ってくることもある。
「火、つけるぞ」
手持ち花火の先に武律さんがライターで火をつけた。赤オレンジの光が勢いよく噴射した。
和詩は山ほど花火を持っていて、家族皆で花火の提案を持ちかけた。暗くなった庭でカラフルな光を誕生させていく。
「夏っぽいね」
花火に照らされた姫音さんが呟いた。皆の顔は朧気で、花火が消えてしまったら、一緒に消えてしまうのではないかと心配した。
「またいつか、この家の庭で花火がしたいわね」
琴子さんと響太郎君は隣り合わせで線香花火を持っていた。
「琴子さん」
淡い光の中で、しっかりとした響太郎君の声が聞こえる。
「はい、響太郎さん」
「僕は、将来あなたと出会い生きていくことを楽しみにしています。この日々をきっと忘れません」
響太郎君の声は少しだけ震えていて、泣いているように聞こえた。心配になって顔を見るが変わらず聡明な顔つきをしたままだった。
「ええ、私もです」
「姫音さんを産んでくれてありがとう。それから、歌子さん」
途端に名前を呼ばれて私は目を凝らしてよく響太郎君を見た。
一瞬だけ、彼が皺だらけの老人に見えたのは気のせいだろうか。
「初めて名前を聞いた時から、素敵な名前だと思っていました。僕達をここへ招いてくれて、ありがとう」
充満していた煙が風で流れ、顕になった彼の足元を見て息を飲んだ。膝下が透けていて、後ろにある花壇が見えたからだ。
「和詩さん! 響太郎君が……」
私は花火を落として叫んだ。その叫び声に皆は響太郎君に注目した。
「元の時代に帰るぞ」
和詩の声が暗闇に響き、家族の時間の終わりを悟った。
消えかかっている響太郎君自身は取り乱すこともなく、とても冷静に線香花火を持ち続けていた。
「帰る時間が来てしまったのですね」
「怖がることはない。目を覚ませば爺様が隣にいるから。報酬も送っておく。ありがとうな」
「いいえ、和詩さん。報酬はすでにもらっています」
和詩の言葉に首を振り、響太郎君は私達に向かって一礼する。
「僕に生きる希望を与えてくださってありがとうございました! どうか、皆さんお元気で」
「父さん!」
線香花火が地面に落ちた瞬間、響太郎君は消えてしまった。蛍のような綺麗な光の粒が天に昇り、消えていく。
駆け寄った姫音さんは空白を抱き締めたまま、その場に泣き崩れた。
「姫音」
今度は琴子さんの足元が消えかかっていた。帰る順番は、ここへ来た順番と同じのようだ。
「母さん、嫌だ、まだ行かないで」
「姫音、しっかり生きなさい。いつも見守っているからね。歌子ちゃん、あなたに会えて本当に良かった。ありがとう」
琴子さんは最後に満面な笑みで私にそう言った。私は尊敬と感謝を込めて深く頭をあげた。その拍子に涙が地面に数滴落ちていった。
「もっともっと一緒にいたかった。母さん、待って」
「いつも見守っているから」
姫音さんは琴子さんの手をとった。その瞬間、琴子さんは消えてしまった。
私は瞬きもせずその光景を目の当たりにしていた。
暗闇に溶けるように、過去へ帰っていく。
来た順番に消えていく。
あの二人には、二度と会えないのだ。
私は泣きそうになりながら武律さんの方を向いた。
「はは、俺ばっかり怯えていたら格好つかないな」
予想通り、武律さんの下半身は透明になっていた。彼は見栄を張り、平気そうな顔で腕を組んで仁王立ちしている。
「こっちの時代の方が居心地良かったけど、仕方ないか」
「……お父さん」
私は最もふさわしい呼称を選んで、武律さんに近づいた。
彼は驚いた顔で私を見る。
「また、会えますか?」
「……もちろん。俺が必ず会いに来る。ごめんな、こんな父親で」
歯を食いしばりながら笑うお父さんに、泣きながら私は首を横に振った。
「いつ会えるかわからないけど、まあ、楽しみに待っているわ」
姫音さんは目を擦りながら笑っていた。お父さんは姫音さんのおでこにキスをして照れながら手を振った。
「またな」
そして、三人目の来客も消えてしまった。
「あ……」
姫音さんのほっそりとした両足が消えていく。どんな言葉をかけようか悩んでいると、彼女は私の腕を引っ張り、抱き寄せた。
「歌子」
優しい声がする。
私の名前を呼ぶ母。感情を豊かに表現できるような子になるように。声で誰かを幸せにできるようにと付けられた名前。七夏おばさんが教えてくれた由来。彼女に呼ばれたことで私はこの名前が好きだと気づいた。
彼女のふくよかな胸に飛び込む形となる。懐かしい、匂いがした。赤ん坊の頃この胸に抱かれていた記憶はないが、とても安心する。ずっとこのまま包まれていたいくらいに。
お母さんは両腕で強く私を抱きしめる。
「歌子、あたし、あんたのお母さんにふさわしい人になれるように頑張るから。離れても絶対ここに戻ってくる。それまで待っていて」
ぽろぽろと涙が溢れて、私はお母さんの胸に顔を押し付け、思いっきり泣いて、何度も頷いた。
「うん、待っているよ、お母さん」
そして私は気づけば空白を抱いていた。
縁側に並んでいた彼らの荷物も全てなくなっているのを確認して、もうここにいた形跡は何一つ残っていないのだとわかり、切なさが込み上げた。
さっきまで灯っていた花火の光は一つだけになった。謡君はしゃがみ込んで無表情に花火を振り回している。周囲で起きた出来事など気にも留めていなかった。
目の前で人が消えても自分と無関係だと思っている、だから無関心でいられるのだろうか。 私は鼻水をすすり、手の甲で涙を拭った後、謡君に近寄る。
「……謡君、皆いなくなっちゃったんだよ。ひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、おじいちゃんもおばあちゃんも」
つぶらな目は一点だけを見つめている。その先に何もないことを私は知っている。
恐らく、未来の私がこの子をこんな風にしてしまった。
感情をなくした私が育てた結果なのだ。
「こんな小さい子が、感情をまるっきり出さないなんておかしいだろ?」
和詩はしゃがんで謡君と同じ目線になった。花火のおかげで彼の顔が煌々としていた。つられて私もゆっくりとしゃがんだ。
「聞かせてください。この子の話」
「この子の母親は、家族というものを知らずに大人になった。豊かになるはずの感情は腐り、何に対しても笑わず怒らず、ただ機械的に話をするだけの人形になっちまった。謡はそんな母親の立場を真似て心を知ろうとしているんだよ。哀れだろ? 自分を押し殺すほど母親を愛している。優しい子なんだ」
この子は未来の私の子。私は自分の子の心を殺してしまった。この子は花火など見ていない。どこもとらえておらず、ただ暗闇の先の、虚空を眺めているだけ。見えない膜に覆われているように、外を遮断している。家族がこの家に来なくて、自堕落に生きていたら、私は何も変わることはなく我が子をこんな目に合わせてしまっていたのだ。
「武律さんと姫音さんが私を子だと知った時の気持ち、わかる気がします」
「未来予想図なんて完璧にいくはずないんだ。どんなに理想を高くしてもそれが百パーセント叶うなんてありえない」
「一週間前の私は、思い描いた理想を叶えるのにゼロに近かった。そもそも理想なんてものも持っていなかったんです」
「今はどうだ?」
「理想ができました。いつ、誰と結婚するとか、子どもを生むとか、まだ遠い話ですけど、私に家族ができたらその人達と幸せに暮らしたい。平凡でも貧乏でもいい。喧嘩しても泣き合っても」
謡君の小さな頭を撫でた。この子が未来に帰った時、ちゃんと笑えていますように。
私は変わった。だから未来もきっと。
瞼を閉じると、皆と過ごした一週間が蘇る。サラリーマンさんとギャルさんの喧嘩、妊婦さんに怒られながら料理を覚えようとするギャルさんの悔しそうな顔、妊婦さんに撫でられて恥ずかしがる坊主君、どれもこれも素敵だった。皆、いつかここでの生活を忘れていつもの生活を送る。それはとても寂しいけれど、ほんの一欠片でもたまに思い出してほしい。そう願った。
花火が消え、辺りは暗闇になる。正面から和詩が面白おかしそうに笑う声が聞こえた。
「しかし、あんたはまだ人を分析する力が足りない。というより鈍感なのか」
「どういうことですか?」
「ほらよ」
和詩は新たに火をつけた手持ち花火を私に寄越した。真っ赤な火は再び辺りを照らした。先端から火を取られて次々と花火を点火させる。
「誰と結婚するかわからないなんて、わざと言っているのか?」
「あなたは私が誰と結婚するのか知っているんですか?」
「俺」
和詩は親指を自身に向けて顎をあげる。
私は口をあんぐりと開けて、必死でその意味を理解しようとした。
「あんたの旦那だよ」
うっかり叫び声をあげそうになったが、片手で口を強く押さえたので、指の隙間から空気がおかしな音を立て漏れ出るだけに留まった。
慌てて立ち上がり和詩との距離をとった。
「う、嘘! そんなはずありません! 大体あなたはいつの時代から来たんですか?」
「二〇三〇年、これから十一年後。この時代ではあんたと同い年なんだ」
照らされた彼の顔をまじまじと見る。私は激しく首を横に振り地団駄を踏んで抗議した。
「全然私のタイプじゃないのに!」
「失礼だな! 姫音さんと同じようなこと言いやがって。でも俺はあんたのこと可愛いと思うけど」
和詩はまた火のついた花火をくれた。庭は暗闇になったり明るくなったりを繰り返す。
「散々馬鹿にしてきたくせに」
「男子がからかうのは好きな女子だけだってことを覚えた方がいい」
「私達は、どう出会うんです?」
百歩譲ってこの人が未来の旦那さんだとして、その馴れ初めを尋ねてみた。
「ちょうど今年の八月下旬。夏休みが終わる頃だ。気まぐれであんたは登校してくる。確か七夏さんと大喧嘩したんだっけ。そこで初めて顔を見たんだ。なんて暗い奴だろうって思った。素朴だしはっきりしないし浮いているしつまんなそうだった。でも堂々としていた。誰にも相手にされなくても、確かにそこに在った。実際俺も自由気ままでさ、学校の風紀を乱す問題児だったから、嫌われ者で友達の一人もいなかった。だから独りのあんたに暇つぶしを兼ねてアプローチしたんだ。あんたが人並みに会話できるようになるまで二ヶ月は費やしたかな」
彼は高校での唯一の友達になるらしい。例え私が一人で行動しても彼は犬のように後ろをついてきて、くだらない話を一方的に喋って私に聞かせるという。
「四月に北海道から引っ越してきたんだ。地元には友達がいて離れたくなかったんだけど、親の都合で仕方なくな。学校なんて嫌いだよ。でもさ、あんたがいるから学校行くのが億劫じゃなくなったんだよな」
この人と結婚する以上に驚きだった。この私が誰かを支えられているなんて。
「友達から、恋人に進展したのは?」
「それを言ったらあんた、この先の楽しみがネタバレされるから教えないよ」
そうは言うものの、結局は照れ臭いがために教えないらしい。彼の目が忙しなく泳いでいる。
「友達の時も、恋人の時も、結婚しても、笑った顔は一度も見たことがないんだ。俺がこの時代に来てから今までもそう。あんたは一度も心の底から笑っていない」
思い返してみれば、そうかもしれない。居心地のよい家族生活は微笑ましいことがたくさんあって皆が笑っている時、心の中では笑っているのだが表情筋は動かなかった。
それならばと無理矢理手で頬の肉を持ち上げてみる。そのままキープさせようにも、肉は下に落ちていく。
「私、全然笑えないんだ。自分では、笑っているつもりだったのに」
「使わない筋肉をいきなり使えるようにはならない。地道にほぐしていくしかないな。もちろん、謡も母親の笑った顔なんて一度も見たことないんだ。謡は六歳の誕生日プレゼントに何が欲しいって言ったと思う? ママの笑った顔って言ったんだぜ? 俺はどうにかしてあんたを笑わせようと必死になってあれこれギャグをやってみたんだが、案の定ピクリとも笑わず淡々と感想を述べるだけだ。もう過去のあんたに委ねるしかない、それでこの人物当てゲームを思いついた。俺のいる時代は金さえあれば時間旅行できるほど発展している。ここでは夢のような話だが本当だ。だが、安月給の俺には時間旅行できるほどの大金は持っていなかった」
「じゃあ、どうやって大金を?」
「幸運にも宝くじが当たったんだ。高級マンションや高級車だって何だって買える。改めて謡に訊いた。この金でおもちゃやお菓子がいくらでも買える、だけど時間旅行をすれば物は手に入らない、それでもやるかって。こいつは迷わず頷いて母親の笑顔だけを欲した。一週間で終わらなかったらどうしようかと思ったぜ。皆をちゃんと送り届けるまで資金が足りなかった。悪いな」
そう言って和詩は苦笑いをする。
終わっては手渡され、終わっては手渡され、一連の作業をこなすように、謡君は黙々と花火を散らし続けた。
私の笑顔しか望まない。私のせいでこの子も笑えないのに。なんて、残酷なことをしたのだろう。これでは同じ道を歩ませて、ずっと独りぼっちになってしまう。
「私には、あなたがいたから孤独から抜け出せたけど、この子にもそんな人が現れるとは限りません。まだ、間に合いますか? この子が友達やたくさんの人に愛されている未来になること」
「間に合うさ。だからさ、一度だけ力いっぱい笑ってみてくれないか?」
私は口角を押し上げて、固まってしまった顔の筋肉を動かした。きっとひどい顔になっているだろう。とても笑っているとは言えない。それでも謡君は私を見て、はっきりこう言った。
「パパ、ママがわらったよ」
人形のように無表情だった謡君は少しだけ微笑んだ。子どもらしく、とても愛らしい顔をしていた。
「謡は、最初からあんたが母親だってわかっていたんだな」
花火がいつまでも終わらなければ良いと思った。でも、そういうわけにはいかない。
和詩は、こうやって私を暗闇にいさせないために光をくれる存在になる。だから、この時代にいる和詩に会いたいという気持ちが湧いてきた。今度は私が彼を助ける番だ。
最後の花火が終わると、和詩は謡君を抱えて立ち上がった。二人の顔は薄らとしか見えない。その方が都合良い。向こうも泣いている私の顔を見えないから。
「行くんですか?」
「ああ、目的は果たした。これで未来のあんたも笑えるようになっているはずだ」
「未来は、どんな世界ですか?」
「ここの景色はあまり変わらないかな。俺達三人はこの家で暮らしているんだぜ。今頃あんたは独りで留守番しているだろうから帰ってやらなくちゃ。笑顔で出迎えてくれるよな? ああ、でも未来は良いことばかりじゃない。受け入れなくちゃいけないこともたくさんあるんだ。人口は遥かに減少しているし、夏もここより暑い。あんたの好きな猫も絶滅危惧種になりそうだ」
「それは、すごく嫌だな」
「全部が悲観的じゃない、医学も進歩したし、世界で戦争はどこも起きなくなる。あとは自分の目で見るんだな」
声がどんどん遠くなり、二人の姿は目を凝らさないといけないほどぼやけている。
「時間だ。いいか? 夏休みが終わったら学校に行け。絶対独りにさせないから」
「ありがとう。和詩さん」
「さん付けはやめろって」
「……和詩、たばこは身体に悪いからやめて」
「はは、考えとくよ」
「学校で、会おう」
「おう、この時代の俺によろしくな」
「じゃあ、またね」
「またな、歌子」
小さい手が暗闇で振られているのがわかった。私の未来の夫と子はやがて完全にその姿を消した。
この場には私だけになった。散らばった花火と袋を黙って片付ける。今まで平気だった静寂が心細かった。
あの賑やかさが恋しくて、無性に寂しくて、嗚咽をあげながら私は泣いた。
独りの時間は数え切れないほどあったけれど、こんなに涙は出なかった。
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