梅の木坂まで

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梅の木坂まで

女のタクシー運転手がまだ珍しかった頃、私はよくあの料亭から芸者の送迎を頼まれたものだった。  男の運転手よりも、女の子が安心するといった理由だったと思う。  今夜も芸者を送り届け、いざ帰路につこうとしたそのとき、道で一人の娘が手をあげているのが目に入った。近づいてみると、幼なじみの京子だった。  目の前でドアを開けてやると、するりと乗り込み、 「梅の木坂まで」  といたずらっぽく言った。 「まーた、運賃ちょろまかす気でしょ」 「どうせ帰り道じゃない、許してよ」  まったく、この女はこういう奴なのだ。ちゃっかりもので、笑えば済むと思ってる。  でも、こんな風にくしゃっと笑われて、彼女の頼みを断れる者はこの界隈にはいない。  人たらし、とかいう奴なのだろう。 「仕方ないわね」 「えへへ、ありがとう」  結局また、私は京子を乗せることになるのだ。    コロコロとタイヤを転がしながらタクシーは山道を行く。 「こんな夜中にあそこで何してたの?」 「秘密」  お、もしかして、 「いい人?」 「そんなわけないじゃん」  じゃあなんなのさ、と思うと、 「実は夏ちゃんのこと待ってたんだ」 「私のこと?」 「うん。言いたいことがあって」 「何よ」 「怒ってないよ」  キッとブレーキを踏み、すぐに振り返ったが京子はもうおらず、あとには水溜りだけが残されていた。  夜、拾った女が幽霊だったという話は運転手仲間でもよく聞く。上げた手を見たときから気づいていたが、まさかこんな幕切れだなんて。  もっと話していたかった。恋の話も、くだらないことも、将来のことも。  梅の木坂はまだまだ先じゃないか。相変わらずちゃっかりしやがって。  それでも、私が轢き殺したようなものなのに、 「会いに来てくれて、ありがとうね」  ハンドルに突っ伏して、少しだけ泣いた。
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