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砂漠の女商人
「首都に住むおばあ様まで、手紙を届けてちょうだいね」
そう言って母は、砂漠を旅する商人に私を引き渡した。商人はつばの広い大仰な帽子を被り、派手な大判の布を纏ったまだ若い女だった。
「安心してください。この子はちゃあんと、首都まで届けますので」
女は笑って私の頭を撫でた。
「ちゃんとお姉さんの言うことを聞くのよ」
「分かってる」
私は出来るだけ気丈に見えるよう笑ってみせた。母も、後ろに控えた姉も兄も妹も弟も、父ですらも、言葉とは裏腹に泣きそうな顔をしている。
「じゃあ、行きますので」
女はラクダの背に私を乗せ、次いで自分自身も乗り、ついに我が家を出発した。
振り返ると、家族全員がじっとこちらを見送り続けていた。私がどんな髪の色で、どんな目で、どんな少女であったかを忘れないでいるために。
この乾いた泥と岩に囲まれた故郷を見るのも最後になるだろう。
この旅が首都にいるおばあさまに手紙を届けるものでないことも、この女がただのはぐれキャラバンではないことも、すべての仕方のないことであるのも、私は分かっている。
かつて、同じようにいなくなった友達を知っているから。
日が出たばかりの朝のことだった。
砂漠の夜は冷える。
最初の夜、私は怖くて心細くて、なによりも寂しくて眠れなかった。あんなに強くいようと思っていたのに、震えが止まらなかった。
「目瞑った方がいいよ、眠れなくても。疲れが取れる」
同じテントの隣で横になっているあの女が言った。
「それも無理なら星を見な。私はそうしてた」
「眠れない夜があったの?」
人売りなんてしているこの女に、そんな夜があったとは思えなかった。
「あったよ。あんたくらいの頃。泣いて喚いて家族と別れた。あんたは偉いよ、泣かないもん」
そうして、女は私の頭を撫でた。
「私たちは夜、星を見ながら自分の位置を探るの。動かない星は北極星、柄杓の先は北斗七星。船乗りもこうして海を渡るんだってさ。砂漠と海、全然違うのにこんなところで同じだなんて不思議だよね?」
昼間の見渡す限りの砂の山を思い出す。海ってきっとこんな感じじゃないか、と思ったことも。
「海、見たことあるの?」
「ないよ。いつか見てみてみたいとは思うけど」
人売りで、はぐれキャラバンで、信用も何も出来ないけれど、その声は今の私を唯一撫でてくれる人間のものだった。
私はいつのまにかトロトロと眠りに落ちていく。
朝が来て、私たちはまたラクダに乗った。
目的や立場は違えど、人間が一緒に旅すれば自然と役割は出来てくる。点在するオアシスに寄るときには、私は水を汲みに行き、女は他の旅人やキャラバン隊と情報収集というように。
乾いた風になびく、女の真っ赤なスカーフを見て思う。私は彼女のことを案外に嫌いではないのだ。
首都ではどんなところに売られるのか。
私の器量じゃ、娼館はないだろう。機織りか、女中見習いのどちらかじゃないか。
家族もいない、知ってる人すらもいない。どちらにしても辛く苦しい生活に違いない。
そんな前途暗いばかりのこれからの未来において、この強く優しい女に出会えたことは私の支えになるだろうという予感があった。
「ここらへんでいいかな」
日が落ちる頃、女はラクダを止めた。今夜はここにテントを張るのだろう。
これまでと同じように、私はテント張りを手伝うべく、ラクダから降り、荷物を下ろそうと振り返る。そうすると、女が指示をくれて、その通りに動けばいい、はずだった。
振り返ると、そこには刃があった。
刃渡りは20センチほど、よく磨かれていて、夕焼けが反射して眩しい。
ナイフを握る女はなんてことのない、星と海を語る時と同じ顔をしていた。
「どうして」
馬鹿な質問だ。ここに至って、ようやく気づいた。私は売られるのではない。
「さっきのオアシスで、キャラバン隊から言われたんだよね、もう女の子はいらないって。連れて歩くのも面倒だし」
抵抗しようとか、そんな気にはならなかった。
ただ、仕方のないことだと思った。
嫁入り前の姉でもなく、よく働く兄でもなく、まだ幼すぎる弟でも妹でもなく、私であったのが仕方なかったのと同じように。
眠くなるのを待つように目を瞑って最期の時を待った。
乾いた風が私の髪を撫でる。
ふと、女の声がした。
「…やめた」
目を開けると、ナイフはもうなかった。相変わらず、女は何事もなかったかのような顔をしていた。
「さっさと寝る準備しな」
弾かれるように私は動き出した。荷物からテントの大布を取り出す。
女が何を考えて、この決断を下したのか私には分からない。
ひょっとすると何も考えておらず、単なる気まぐれなのかもしれない。
だとすれば、きっとこれから私はこの女の気まぐれに振り回されて生きていくのだろう。なぜだかそれは恐ろしく愉快なことに思えた。
私たちの旅は、まだ続く。
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