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「ただいまーっ!」
元気のいい声と共に、店の引き戸をガラガラッと勢い良く開けて入って来たのは、『澁谷』の跡取り娘である渋谷菊乃、一七歳。都内の私立高校に通う、いわゆるJKである。ベージュを基調にした短いチェックのスカートと、緩く首に巻かれた同柄のネクタイ。並びに身体の線を強調するかのような、同色のスリムな女生徒用ブレザーが可愛いと都内では評判の学校だ。決して進学実績を誇れるような名門校ではなかったが、ごく一部の優秀な生徒は英進部に在学し、いわゆる一流大学を目指して日々勉学に勤しんでいる。無論、菊乃ごときが英進部に入れるはずは無く、彼女は普通の総合進学部に所属していた。成績的には、せいぜい中の上くらいだろう。
丁度その時に店番をしていた山下静が応えた。
「あら。今日は早いのね?」
彼女はこの店で働き始めて十年余りになるベテラン職人で、元来パティシエを目指して調理師の専門学校を卒業していた。しかしある時、たまたま『澁谷』の和菓子に触れ、その魅力に憑りつかれて以来、この店に居座って修行を積んでいる身だ。
「えへへぇ~。だって・・・ あっ、有った有った!」
一歩店に入れば、土間を取り囲むようにしつらえた造り付けの古民具が並び、昔ながらの陳列ケースの中に様々な和菓子が並んでいる。菊乃がディスプレイされている和菓子の一つを指差して言った。
「お願い、静さ~ん。これ一つ頂戴!」
菊乃が甘えた声を出すのも当然だ。その和栗の栗きんとんは彼女の大好物なのだから。
『澁谷』の栗きんとんは普通のものとは異なり、栗そのものにはほんのりとした甘みを感じる程度にしか味付けをしない。その代わり、硬めのゼラチン層で栗を包み込み ──従って中に封入される栗は、若干小振りな物を選ぶのが肝要だ── たっぷりとした砂糖と裏ごしした栗の風味をプラスして甘未を調整していた。そのままだとゼラチンがベタベタしてしまうので、ホクホクに炊き上がった栗をパウダー状にして、その周りをコーティングしてから茶巾絞りするという手の混みようだ。従って最終的な仕上がりはお馴染みの栗きんとんと変わらないが、一口目からのその違いは歴然、中身が全く異なる純和風スイーツである。勿論、機械生産などしておらず、全てが職人の手による『澁谷』の看板商品だ。
毎年この時期になると、決まって期間限定メニューとして店頭に並ぶのだが、今朝学校へ行く前に厨房を覗いた菊乃は、巨大な業務用ボウルに大量の栗が山盛りとなっているのを発見したのだ。栗善哉とか栗羊羹の場合は、あれ程の大量の栗を仕入れることは無い。従って父 ──彼こそが営業規模拡大には何の価値も見出さないという店主その人であり、伝統を受け継ぐ和菓子職人でもある── は今日、菊乃の大好物、『澁谷』オリジナル栗きんとんを仕込むつもりであると推察し、その予想がまんまと的中したのだった。
「ダメダメ。売り物に手ぇ出すんじゃないよ、この娘は」
静は煩いハエを追い払うように、シッシと手を振った。
「えぇ~、いぃじゃ~ん。一個だけぇ~」
「ダメったらダメ!」
「んもぉ・・・ 静さんのケチんぼ!」菊乃の頬っぺたがぷくぅと膨らむ。
「可愛くしたってダメなものはダメ。その代わり、今厨房に行けばし損ないが有るから、それで我慢しときな」
和菓子の制作過程で出る失敗品とか半端部材をまとめて「し損ない」呼んでいて、それを口にできるのは店の関係者だけに与えられた特権だ。
「マジぃ!? やったぁ!」
店のカウンターを回り込み、バタバタと騒がしく店の奥へと消える菊乃の背中に向かって、静が声を飛ばした。
「コラッ! 店でバタバタしないっ!」
「はぁ~ぃ」
静はその後ろ姿を呆れたように見送った。
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