前篇:蛇王の仮面

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前篇:蛇王の仮面

[1]  私は船を下りた。港を出て、海岸沿いに伸びる街道を歩いた。港から少しでも離れたかった。まさかとは思うが、私を追う「あいつ」が同じ船に乗っていないとは断言できないからだ。  大抵の敵は恐れぬ私だが、あいつだけは苦手だった。私にとって、あいつは「天敵」であり、まともに戦っても勝ち目はない。次の対戦に臨む前になんらかの方策を用意すべきであった。 「うっ……」  背中の怪我が疼く。八割程度は治癒しているはずだが、痛みは、敗退の屈辱同様、簡単には消えてくれない。最初の対戦の際、不覚にもあいつの攻撃を背中に浴びてしまった。危ないところだった。咄嗟に海中に飛び込んだので助かったが、あそこではなく、他の場所だったら、私はあいつに殺されていた。敗者の運命ほど惨めなものはない。骨も肉も内臓も勝者の栄養になる。  私は街道を逸れて、砂浜に建てられた小屋に足を進めた。軒先に「めし」と記された木札が下げられている。煮売り屋(食堂兼酒場)であった。大鍋で煮込まれた魚介スープのいい匂いが、店の外にまで漂っていた。私は店の前で足を止めた。 「……」  刹那迷ったが、今夜の食事はここに決めた。とりあえずではあるが、あいつの追跡を振り切ったことを私は本能的に感じていた。それは戦士独特の感覚であった。私は生来の戦士であり、自分の勘に相応の自信を持っていた。この勘が働かなくなった時が、すなわち、私が死ぬ時であろう。  暖簾をくぐり、中に入ると、地元の漁師だと思われる先客数人が飯を食べたり、酒を呑んだりしていた。豪胆な連中のようだが、私の姿形を視野に捉えた瞬間、口中のものを吐き出したり、腰を抜かしたりした。このような反応は珍しくはないが、あまり気持ちの好いものではない。  亭主は多少「化物慣れ」しているらしく、少なくとも表面的には、平静を装っていた。私は腹が減っていることを告げ、食事を済ませたら、早々に立ち去ることを約束した。代金を先払いで渡すと、信用する気になったようだった。精一杯の愛想を発揮して、私を眺めのいいカウンター席に案内してくれた。  追われる身の私に、景色や景観を愛でる余裕などあるわけもないが、海に溶け込むようにして水平線に没する夕陽は、なかなかの見物であり、風流を嗜まぬ私にさえ、自然美ならではの感動を与えてくれた。あるいは、あいつも、この光景を見ているかも知れない。案外近くで。
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