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五月の初旬になってもまだ、集落を囲む連峰の頂きは中腹まで雪を被っている。
その山麓にある木造二階屋の寂れた宿が、笠井修治の定宿だ。
笠井は東向きの窓を開け、冴えた空気を吸い込んだ。
持参してきたラジオでは、中国への侵略を邁進していた関東軍が制圧した満州国の植民地化を誇らしげな節回しで報知しながら、「続きまして」と、第一号国産パーマネント機の開発により、一般家庭婦人の髪はコテからパーマに変容しつつあるなどと告げている。
戦火の不穏と平穏が混在している世相が求める小説とは。
問われたのなら「恋愛」と、笠井は即答するだろう。
実際、笠井は新聞と雑誌の連載小説を三本、新刊の執筆依頼も受けている。
流行に乗った作家には、人気が廃るその前に書かせるだけ書かせて売りさばく。金の匂いを嗅ぎつけた各社の担当編集者が鼻を突き合わせ、同じ宿の一室で笠井の原稿を待っている。
いや、見張っている。
遅筆を自負する『先生』は、〆切までに書ける目安が立たなくなると、逃走する。
行方をくらまし、連載に平気で穴を空けたりする。
だから彼等は経費を用いて笠井を宿に軟禁する。
自社の分の原稿が手に入り次第宿をたち、入稿時刻に間に合わせるため汽車に飛び乗り、上京する。
誰かが宿を飛び出せば、取り残された側の苛立ち、不平不満は増長され、宿の女中が灰皿を変えても変えても吸い殻が山のように積み上がる。
窓を開けても、階下の彼等の煙草の匂いが笠井の焦りと閉塞感を募らせる。解放感は一瞬だ。
それでも笠井は依頼があれば引き受ける。
書いて欲しいと乞われる時の優越が、笠井の理性を鈍らせる。まるで麻薬だ。覚めてしまえば快楽の何十倍もの後悔の業火に炙り焼かれて、のたうち回る羽目になる。
「いっそ、散歩にでも出かけられたらよろしいのに」
窓辺に佇む笠井の背後で屈託のない声がした。
顔を向けた笠井に女中が苦笑めいた微笑みを浮かべて僅かにはにかんだ。
この宿で働き始めて間もない女は二十歳前後だ。
世間的にはトウが立った行き遅れだと揶揄される年齢なのだが、雛人形の女雛のような面立ちと、ほっそりとした体形と、可憐な声音が愛らしく、どこか少女めいている。
それでいて、十歳近くも年上の男に対して自ら声をかけてくる胆の太さも備えている。
女は笠井と目が合うと、畳に丸めて捨てられた原稿用紙を拾い上げ、膝を着いた腿の上で大切そうに一枚一枚開いて重ねた。
「どうするんだい? そんなもの」
「もしかしたら先生が、あの時書いたものの方が良かったと思われるかもしれませんでしょ? そうした時のために取っておきます」
失笑しながらからかった笠井に女は丁寧に洗濯物でも畳むようにしながら答える。
笠井は笑みを消しながら、伏し目になった女のキレイな横顔を、微動だにせず凝視した。
ああ、そうか。
ここにもあったと目だけを光らせ、諦めの境地に入り込む。
自分が決して断ることができない案件。求められたら応えずにいられなくなる性分が疼き出すのだ。
まるで病か何かのように。
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