35人が本棚に入れています
本棚に追加
「こんなに素敵な恋愛を書いてらっしゃる先生が、ずっと机に向かったままで、うんうん唸ってらっしゃるなんて」
変だとまでは言わなかったが、微笑の形に引き上げられた唇が暗に語りかけてくる。
息抜きしろと誘う女は拾い終えた原稿を、正座している腿の上で天地左右を整えた。両目を眇めた笠井は窓の外を見る。
雪解けを促す春の日射しが恋しく思えた。
ここに来てから砂利石を踏む感触を、久しく感じていなかった。
「宿の者しか使わない通路を使って裏玄関まで案内しますよ。座敷や玄関口でお待ちになっていらっしゃる出版社の方々とは、顔を合わせず外に出ることが出来ますよ。気分転換なさった方が、きっと筆が進みますから」
そうすることが笠井の為だと無邪気に信じて疑わない。
だから意向を確かめたりなどしないのだ。
笠井は組んだあぐらをほどいて立つと、腰に手を当て、芝居がかった伸びをした。
「それじゃあ、案内してくれる?」
日射しの強さは春とはいえ、風は肌を刺すかのように凍えて冷たい。本当はまだ火鉢を抱えて炭の上に網を乗せ、餅など焼いていたかった。
けれども女中は嬉々として、笠井にコートとマフラーと帽子を次々手渡した。
どうして自分はこうなのか。
行きたくもない散歩に出られる喜びをニヤニヤしながら演じている。
「クマ撃ちのマタギの皆が猟に出ている頃ですから、銃声なんかも聞こえてくるかもしれませんけど、マタギの皆は一般の人が入れない急斜面や雪深い山の中しか歩きませんから大丈夫です。裏山の林道の入り口から、ゆるゆる登って行かれたら、一時間もかからないうちに山頂に着きますよ。見晴し台もありますし、今日のように天気のいい日は富士山だって見えますから」
笠井と一緒に座敷を出てから、編集が集う座敷とは逆方向へと廊下を進み、突き当り近くの引き戸を開けた。
中に入ると急こう配の階段になっている。
二階から一階まで降り切れば土間があり、藁草履やカンジキが置かれていた。
「良ければ毛足袋を使ってください。踵に滑り止めのカモシカの爪が付いてますから、道に雪が残っていても暖かいですし、転びません」
女中は足首まですっぽりと毛皮で覆ってしまえる見慣れぬ足袋を、笠井の為に土間に出す。おそらく土方が用いる地下足袋に毛皮が縫い付けられているのだろう。
山高帽を粋に被り、黒のフロックコートをまとった笠井は内心悲鳴を上げていた。
この出で立ちで、そんな野蛮で野暮な足袋を履けと言うのか。
机に向かってうんうん唸って恋愛なんて書いている小説家よりも滑稽だ。
最初のコメントを投稿しよう!