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「ありがとう。じゃあ、履かせて頂くことにするよ。毛皮で覆った足袋なんて初めて見るけど暖かそうだ」
「カモシカの毛で作ってますから水も弾くし、便利ですよ」
けれども笠井は憤慨を微塵も態度に出さないまま、毛むくじゃらの履物に、すっぽり足を突っ込んだ。女中は土間に降りるなり、笠井の足元にしゃがみ込み、左右の足首辺りで紐を結う。
一般的な足袋のように金具で止めたりしないらしい。
どちらかというと、靴の構造に近かった。
しかし、上質な黒のフロックコートに山高帽を被った男が野獣の毛皮で覆われた地下足袋なんぞを履いている。想像するだに情けない。
それでも間口の狭い玄関をくぐった笠井に続き、女中も表に出て来て手を振った。
「行ってらっしゃい。気をつけて。一時間ぐらいなら編集者の皆さんも気づかれないと思います。たとえ何か言われても、私が何とかしますから」
山歩きを心置きなく楽しんで、元気になって戻って来てくれ。
女は悪名高い逃避作家が、このまま脱走するなどと欠片も思っていないらしい。無心な女をいじましいとも感じたが、同時に腹を立てていた。
これが愛だというのなら、なんて凶暴なんだろう。
なのに自分は執筆中の作品に、彼女自身を思わせる女をちらりと登場させたら、どんな顔をするのだろうかと想像した。
いつものように原稿を拾い集めて読んでいる彼女が不意に息を呑み、可憐に鼓動を高鳴らせながら、あえてそれには触れずにいるに違いない。
そういう欺瞞のサービスを御礼に贈ってあげよう。
耳が痛くなるような冷たい風に晒されながらも、笠井は悪どく微笑んだ。そしてすぐに視界に入った林道らしき道へと足を踏み入れる。
両脇はブナの木立が針金のような枝を広げ、木漏れ日が道に影を落としている。山肌はまだ白銀の雪に厚く覆われ、野兎らしき足跡が点々と付いているのが愛らしい。
枯れ落ちた枝を拾った笠井は、道沿いのブナの枝を時折叩いてクマを避ける。
どうせならクマ避けの鈴も持たせてくれたら良かったのにと、ひゅんと空気が鳴るほど鋭く振り回す。
やがてブナの森を抜け、沢に沿った一本道へと変化した山道を、脇目もふらずに歩き続ける。頂上にまで登ったら、下ってくるだけ。
それだけだ。
雪の重みに耐えかねて、倒れたブナの古木で道が塞がれようとも、笠井の中に引き返すという選択肢はない。
自慢のコートが汚れようとも倒れた幹によじ登り、向こう側へと飛び降りる。そうして帽子のツバの傾斜を整えて、笠井は歩く。
ただ歩く。
小高い山の頂上にまで登ったら、何かが解決するとは少しも思わない。
笠井にとって、これは女中に課せられたミッションだからだ。
気分転換などではない。
そのうち喉の渇きを覚えた笠井は、清涼な沢に目を向けた。
転げ落ちたりしないよう、頑丈そうな木の枝に掴まりながら沢に近づき、平らな箇所を見つけて屈んだ。
岩肌を下る雪解け水を両手で掬って喉を潤し、濡れた両手をハンケチで拭く。コートの裾がたとえ泥にまみれても、ハンケチだけは汚さない。
笠井にとっては、なくてはならない小道具だからだ。
たとえば不意に目の前で女が涙を流した時、差し出されるのは純白の艶めく絹のハンケチでなければ男の恥だと思っている。
汗ばんだ首の辺りも拭ってから、戻りかけた時だった。
さらさらと音をたてて流れる清水に一筋の血が混ざり出す。笠井は目を剥き、流れ来る上流を振り仰ぐ。
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