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上流からの血の筋は、次第に濃く太くなる。
沢はゴツゴツした岩場をぬうようにして流れている。
笠井はしばらく鮮血が混じる清流と、雪を被った巨石で隠れた上流を、交互に見た。
この地域には、ウサギやテンやクマなど野生動物を銃などで狩り、肉や毛皮を売ることで生計を立てる『マタギ』と呼ばれる猟師がいる。けれども狩猟の銃声は、ここに来るまで一度もしていない。
それならこの血は何なのか。
面倒事に関わるなという警告が、頭の中では響いている。
胸の奥では確かめたい衝動が疼いている。
結局、笠井は雪解け水で所々地肌を見せる沢の河原を昇り出す。滑らないよう、這いつくばって岩を乗り越え、折り重なった木立の枝を払い除け、滔々とした血流を横目にしながら息を切らした。途中で帽子が斜めにずれて落ちかかる。笠井は思わず頭に手をやり、歩を止める。
帽子もコートも泥や木屑にまみれている。
ぜいぜいと肩で喘ぐ自分はまるで遭難者。単なる散歩のつもりでいたのに、気づけばこんなことになる。
体を起こして呼吸を整え、自分の性を笠井は呪った。嘲った。
ついでに周囲を見渡すと、前方の滝壺辺りに人がいる。
相手もすぐに笠井に気づいた素振りを見せる。少年だ。笠井は視力がいいのが自慢だ。三十近い歳だというのに、子供のように視力が落ちない。
少年は黒のロングパンツにポケットのたくさん付いた狩猟ベスト。その上にフードの付いた黒の上着を羽織っている。
足元はおそらくスパイク付きの登山靴。
ニット帽で耳まで覆い、足元にバックパックを置いていた。
雪の斜面を照り返す日射しを抑えるサングラスを取り、少年は突然姿を現した異形の男にじっと視線を凝らしてきた。
「怪しい者じゃないんだ。僕はこの山の麓の宿に泊まっている小説家なんだ。散歩をしてたら、たまたま沢で……」
と、言いかけて、笠井は彼の右手を見た。
鮮血にまみれた刀身の長いナイフを握っている。続いて彼の足元へと、再び笠井は視線を移した。
ぐったりとして動かないカモシカが横たえられ、鹿から流れる血の筋が滝壺へと流れ込み、下流に流れる。どうやらこれが『答え』らしい。
伝統マタギは狩猟の仕方を親から子へと口伝えで伝承する。
そのため、尋常小学校の頃から親に付き従い、村田銃の撃ち方を習い、ウサギやテンを狩ったりする。
彼もおそらくマタギだろう。
「すごい鹿だね。大物だ。ちょっと近くで見せてもらっていいかな?」
と、笠井は努めて朗らかに言う。
訊ねた傍から既に滝へと近づく笠井を少年は微動だにせず凝視する。
目鼻立ちがわかる距離まで河原を昇ると、思わず歩調がゆっくりになるほど眉目秀麗な顔立ちだ。
顔は小さく、柳眉に奥二重の怜悧な双眸。
鼻筋は涼やかに通り、鼻梁も高い。つんと尖った上唇が愛らしくもあり、妖艶でもある。
これだけ日射しを浴びているのに白磁のような色白だ。そのぶん、引き結ばれた唇の朱色が視線を惹きつける。
これほどまでの美少年も珍しい。
笠井が今まで出会った中でも群を抜いて美しい。そんな彼が鮮血の滴るナイフを握っているのが不思議と画になる。
笠井の興味は彼が仕留めた鹿ではなく、彼本人に移っていた。
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