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「お前、ひとりか?」
火を避けながらやんわりと問う。男はかき混ぜる手を止めぬまま困ったように破顔した。
「ええ、ここにはオレひとりしかいません」
寂しげな声は遠く涙の気配がある。薄いそれはなぜだか噛み締めるように聞こえた。
黒い瞳のなかで生き物ように蠢く灯は一種の儚さに思えた。湯気で睫毛の下が隠れたのが救いだろう。
懐かしむように口の端が上がった。
「親はいません。幼い頃病で死にました。妹ととふたり暮らしでやっていたんですが……っと、できましたよ」
ヘラが鍋底を擦る音がいやにゆっくりと聞こえた。碗に並々と注がれた煮汁がたぷんっと揺れる。
「熱いですので、気をつけて」
受け取るのを刹那躊躇った。女の手はしんそこ冷え切っていた。触れれば氷ついてしまう。
けれども男の厚意を無下にするわけにもいかず、おそるおそる碗を取る。
不思議なことに煮汁は冷めなかった。碗越しに伝わる痺れに似た熱がじんわりと手に広がった。
「熱っ」
「大丈夫ですか」
なにが面白いのか、けたけたとから笑う男にむっとした表情で応える。
「……温かいものは苦手だ」
「すみません、お嫌いでしたか?」
「そういうわけではない。だが、やはり苦手だ」
拗ねたようにそっぽを向く女に男はやはり笑っていた。芋の溶けてとろんだ汁はあつくて、味はよくわからなかったが箸は休まなかった。
「猫舌なんですね」
笑いながら男は頁を捲った。盗み見ると殴り書いたような文字が綴られていた。女には判別不明だが、男には読めるらしい。
箸先を舐めて綺麗に平らげると、男が一向に手をつけないのを不審に思った。
「お前は食べないのか」
「いえ、実はオレはもう食ってしまったので」
男は心底嬉しそうに笑った。儚い表情だった。まるで表情に慣れていないように、笑顔はぎこちなかった。
しんっと胸のあたりに形容のない感覚がはしった。男の目はこちらに向いたままだ。
「なんだ……?」
「いえ、その」
「なんだ?」
男がじっとこちらを見つめてくるものだから、つい睨めつけてしまった。男はきょとんとした顔で首を傾ぐと恥じらいを隠すように笑った。
「いえ、その……あまりにもあなたが綺麗だったからその……、つい見惚れてしまって——」
言葉の意味をわかりかねた。しんっと胸のあたりに再びあの感覚が奔る。意味を解りかねたが、その言葉が女の何かしらの琴線に触れてしまった。
急速に熱が冷めていく———。
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