好きな人間、ひとりだけ殺せるよ。

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柚奈は涙を流しながら走り続けた。背後からは、「待て!」と叫ぶ工藤の声と足音が聞こえる。柚奈は、このままでは捕まってしまうと思い、隠れるために、廊下を曲がり、理科室に入った。 慌てて見回した結果、教卓の下しか思い付かず、身を丸くして隠れた。 ガラガラガラ。 無言で扉が開いた。 ー 工藤先生…。 ー 「…窪野ー?いるんだろ?」 ー 怖い…。ー 「さっきのことは間違いなんだ。すまなかった。…先生、お前のこと三廻部たちから助けただろ?チャラにしてくれよぉ。」 工藤は小さい声で話しながら、理科室内をふらついていた。 ー はぁ、はぁ、はぁ…。ー あまりの恐怖で、自分の呼吸が荒くなっていくことに気が付いた柚奈は、工藤に気付かれないように手で口を塞いで身を潜めていた。 「…なぁ、窪野。先生、お前のこと好きなんだよ。どうだ?付き合ってみないか?俺ならお前を三廻部たちから守ってやれるぞ。」 工藤はニヤリとした笑みを浮かべながら、教卓に少しずつ近づいた。柚奈は、少しずつ近付いてくる足音が恐ろしくて堪らなかった。 「柚奈ちゃあん、ここかなぁ。」 ー もうダメ…。ー 「あれ?工藤先生?」 理科室の前を偶然通りかかった別の教師が工藤を見付けて話し掛けた。 「え?あ、お疲れ様です。」 「何されてるんです?こんなとこで。」 「あ、いや、な、何も。何か物音がした気がしたんですが、気のせいでした。は、ははははは。」 工藤は慌てて理科室を出て、逃げるように去っていった。 話し掛けた教師は、慌てた様子の工藤の行動に首を傾げたまま、理科室の前を通り過ぎていった。 「…はぁー。」 柚奈は、風船の空気が抜けるように、大きな溜め息をついた。 少し気持ちが落ち着くと、今起こっていることが本当に現実なのかという気持ちになり、悲しくて死にたいという感情が込み上げてきていた。 「…ねぇ。」 突然、誰かの声が聞こえた。工藤ではない。少女の声に聞こえた。柚奈は教卓の下にいたため、姿は見えない。 「ねぇ、出てきてよ。」 二回目の声で、少女というより幼女に近い女の子の声だと感じた。 ー 何で子どもが?ー 柚奈はそう思いながら、恐る恐る教卓から頭を出し、声の主を確かめた。 「あ、出てきてくれた!」 目の前、教室の真ん中に、長い黒髪で、黒いワンピースを着た、やはり幼女と呼ぶべき小さな女の子が立っていた。女の子は、満面の笑みで柚奈を見ていた。 「こんにちは、柚奈ちゃん。」 腰辺りまである綺麗な黒髪、まん丸な大きな目、黒一色のワンピースに、足元は裸足。 一見可愛らしい幼女だが、高校の理科室に突然現れたとなると、それは普通ではないと柚奈は感じた。 柚奈は、ゆっくりと立ち上がり、教卓の前に移動し、女の子と向き合うように立った。 「…死神?」 柚奈がぼそりと呟いた。直感でそう感じたのか、自然と口から溢れていた。 柚奈の言葉に、女の子はクスリと笑った。 「死神?こんなに可愛らしいのに?ププッ、もっと可愛いものだよ。柚奈ちゃん面白いね。」 「…何で私の名前知ってんの…?」 柚奈は恐る恐る質問した。 「フフッ、カエデには分かるんだよ、何でもねぇ。」 女の子はカエデという名前であることを柚奈は聞き逃さなかった。いたずらな笑顔で答えるカエデに、柚奈は自然と警戒心を緩めていた。 「カエデちゃん、あなたは一体何者なの?」 「カエデちゃん…か。フフッ、わたし柚奈ちゃんよりずっと年上なのにね。ま、いっか!…柚奈ちゃんにこれあげる。」 カエデは柚奈に一枚の紙を差し出した。柚奈は、恐る恐るその紙を受け取った。 和紙のような手触りのA4サイズくらいの紙は、タバコのヤニで黄ばんだ障子紙のような色をしていた。 しかし、その紙には何も文字が書かれてなく、柚奈は首を傾げた。 「フフッ。裏だよ裏。」 柚奈はカエデに言われるがままに、紙を裏返した。すると、墨で文章が書かれていた。 『なまえ』『ほうほう』『じかん』『びこう』 全て紙の左側に平仮名で書かれていた。その文字は、小学校低学年の子が書いたように形が崩れていた。 「ひとりだけだよ、書いていいのは。」 ニコニコしながら話すカエデを、柚奈は睨み付けるような視線で見つめて問い掛けた。 「これ…何?」 「その紙に殺したい人の名前を書いてみて。でも、殺せるのは一人だけだから。」 変わらずニコニコしながら話すカエデ。表情と話の内容が全く噛み合っていない違和感に、柚奈は恐怖を感じた。 その感情は、カエデの話した内容を受け入れた証でもあった。 何故、そんな非現実的な内容をすんなりと受け入れたのか…柚奈は自分でも分からなかった。 「…カエデちゃん、何でこれを私に?」 カエデはニコニコした表情から、ニヤリと何か裏があるように感じれる表情へと変化した。 「…面白そうだから。」 「え?」 「柚奈ちゃん、きっといっぱいいるでしょ、殺したい人間!柚奈ちゃんが誰を選ぶか、カエデ、お友達と賭けてんだ!フフフ。」 ー 殺したい人間? ー 柚奈は、今まで自分が消える方法しか考えてこなかった。ツラくて死にたいと思った瞬間をいくつも体験していた柚奈だが、何故か相手に危害を加える、ましてや殺したいという思考にはならなかった。 「急がなくてもいいよ。その紙には期限はないからね。でも、カエデとしては早く使って欲しいかなぁ。フフフ。」 カエデはそう言うと、徐々に身体が透け始めた。 「面白くしてね。フフフフフ。」 「ちょ、ちょっと待って!」 柚奈の声も虚しく、カエデはスーッと空気に混ざるように消えていった。
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