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1章
妻の瑠美子が最近ハマっているのは、ネット小説を書くことらしい。
確かに暇さえあればパソコンに向かってカタカタやってるなとは思ってたけど……マジかよ。作文なんて小学校の時にはやりたくない宿題のナンバーワンじゃなかったか?
「だって、コンテストで入賞したら嬉しいんだもの」
「入賞? じゃあ印税とか入んのか?」
俺が驚くと瑠美子は笑い出した。
「そこまでじゃないわよ。それに佳作だから、賞金は無し。でも選ばれるのって嬉しいじゃん」
「ふうん」
「気のない返事だこと。ねぇ、佳作になった作品くらい、パパも読んでみてよ」
「え……それってどれくらいの量なんだ?」
「んー、12万字くらいかな」
「パス」
即答した。いや、12万字が短編なのか長編なのかも分かんねえけど。
でもだらだらと綴られた素人小説を読まされるなんて苦痛でしかない。上手く書けた作品を読ませたいという瑠美子の気持ちは分からないでもないけど、俺だってさすがにそこまで暇じゃない。
でも瑠美子は暇なんだろう。
去年の冬に一人息子の歩の中学受験が終わった。
俺はほとんど関わらなかったからよく知らないけど、こいつは親子二人三脚でないとまず受からない代物らしい。瑠美子はこれくらい親として当然だから、と言いきると、塾の送迎から勉強のフォローに至るまで、付きっきりで世話を焼いた。
自分だって大手広告代理店で正社員としてガッツリ働いているくせによくやるよな、とその点は俺も感心している。
おかげさまで歩は無事に第一志望に受かったけれど、その途端、瑠美子が息子のために費やしていた膨大な時間が宙に浮いてしまったのだ。
その浮いた時間を今は小説に費やしている。
しかし小説を書くというのは、息子の受験の世話をするより時間がかかるものらしくて、瑠美子は時々とんでもないことを言い出す。
「あぁ、ごめん。今日の11時59分がコンテストの締め切りなの。今夜は宅配弁当で勘弁して」
そう言って部屋に籠もる日まで出てきた。
おいおい、締め切り前のカンヅメって、お前は一体、どんな偉い作家先生なんだよ。
でも勝ち気な彼女はとにかく負けるのが嫌いなのだ。一度佳作にまで選ばれているだけに、余計にその上を目指したくなっている。
きっとビギナーズラックで大当たりしたギャンブルにズルズルはまっていくのと同じ感覚なのだろう。
まあいいさ。ネットに自作の小説を発表するだけなら、余計な金はかからない。
これが下手に韓流アイドルなんかにハマってみろ。あんなチャラい男どもの手を握るためだけにCDを100枚とか200枚とか、平気で買い漁ることになるんだから。
確か友だちのカミさんが、そんなすかした連中にハマっているとか言ってた。
子どもをほったらかして握手会とかコンサートへ行っちゃうから、その間の子守りが大変なんだと、そいつもぼやいてて、そんなのに比べりゃ、晩飯を作るのをたまにサボるくらいはカワイイもんだと思う。
「昨日はごめんね」
それに、カンヅメの翌朝はちょっと手の込んだ朝ご飯が出てくるから、俺もその辺が楽しみだったりする。
瑠美子はこの辺りの地主の一人娘で、生粋のお嬢様。俺のようなざっくばらんとした家で育っていないから、家事を手抜きするなんて生理的に許せないらしい。だからちゃんと穴埋めをしないと、俺が文句を言うとかじゃなくても、彼女自身が気になるみたいだ。
それに今日は日曜日で、息子の弁当を作る必要も無いから余計に手が空いているんだろう。
「無事終わったのか?」
「お陰様で。協力してくれてありがと」
瑠美子は満足げな笑みを浮かべている。納得のいく作品が出来上がったのだろう。
樫の木の風合いを残した重厚なダイニングテーブルにはパンにスープにサラダに、と次々並べられる。
俺のためにてきぱきと配膳してくれる瑠美子の横顔はとっても綺麗だ。
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