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「案外近くにいたんですね。どうでした? 私の写真は」
気が付くとベンチの横にメリーが立っていた。僕は何気なしに写真を掲げて彼女に問う
「ここのひまわり畑って。なんかの小説で出てきたりした?」
唐突な質問とはいえ、そこまで異質なものではないはず。でも、僕の目には少しだけ彼女が固まったように見えた。
「えぇ、ここを描いた小説はありますよ。駅からここに来る道中や、あのうどん屋のことも書いてあったはずです。タイトルは覚えてないんですけど」
やっぱり、それはあの小説なのだろうか。
「昔のことはあまり覚えていないんですけど。私、その小説が好きだったみたいなんですよね」
「なにその言い方?」
彼女のまるで他人を語るような口調に少し笑ってしまう。さすがに昔のことといってもそれくらいは覚えているだろうに。僕のように誰かの口から語られたならまだしも、好きな小説なんだから。僕が未だに好きだった人を忘れられないように。そういったものは長い間残っているものなんじゃないか。
そう思うのが正しいかどうかはわからない。少なくとも僕はそう思った。でも、彼女は違う。
彼女の顔が少し曇った。その曇った顔に少しの既視感を覚える。
「私、高校二年の夏ごろから前の記憶がないんです」
メリーは淡々とした口調でそう告げた。何回も大勢の人たちにその説明をしてきたのだろう。同情なんていらない、どうせ覚えていないんだから。と言いたげだ。
「色々あったんですけど、今は忘れたことは忘れたままの方がいい気がするんです。記憶っぽいものはたくさんあります。でも、その全てが、ぼやけているんです。何かを物語った記憶でも、それが何かはわからない。みたいな」
――なるほど。そういうことだったのか。
僕の部屋で、期限切れフィルムに浮かび上がった写真に対して彼女は昔の記憶みたいだと言ったこと。このひまわり畑に来た時に「過去の思い出とか関係なく今を写しに来た」といったこと。彼女が一度ここを訪れたのは記憶が戻るかもしれないと思ったからなのではないのか。
もうそろそろ、確認してもいいのではないか。可能性を感じながらも聞けずにいた疑問。メリーという女性は、もしかしたら。
なぜ、彼女はすぐにこの怪奇に気づくことができたのか。なぜ彼女は僕の家に来たのか。彼女の記憶の中におぼろげながらも僕の窓からの景色が残っていたとしたら。彼女は言った「導かれるようにここに来たんです」と。彼女を導いたものは、おぼろげな記憶なのではないか。
「君、もしかして佐野って名前?」
メリーが一瞬見せた表情を僕はすぐに忘れてしまう。それくらい、その表情は彼女に似合わず、メリーという存在と結びつかないものだった。そして、気づけば彼女の視線は斜め下に注がれていた。
「……いえ、名前は泉麻衣です」
その物悲し気な表情は見たことがあった。あの、傷だらけの少女が逃げ出してきた夜。僕の自己満足の言葉に対して、あの子が見せてきた表情そのものだ。
「やっぱり、会っていたんですね。記憶を失う前の私と」
「多分。そこまで仲が良かったわけじゃないから、確信はもてないけど」
そう、すべて仮説にすぎないんだ。名前は違う。でも、中学のあの日。彼女は本だけをもって家出をしていた。もし、高校二年生の頃の彼女も本だけをもって家出をしたら。彼女が望んでいた遠くへ旅に出ていたら。そこで、事故にあって記憶を無くしてしまったら。
いや、さすがに強引すぎる。
「ありますよ。会ったこと、絶対」
でも、彼女はきっぱりといった。
「……佐野さんは貴方が好きだったんです。だから、わかります」
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