オリエンテーション

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「……わからない」  やっぱり、誰のものでもないのかもしれない。意識なんてものは、生存に優位な形質だから生まれただけで、結局僕が僕だと思っているものなんて存在しないのかもしれない。その証拠に、脳の扁桃体を摘出した人は、恐怖を感じなくなるのだという。火が熱いということを知っていても、それに近づくのが怖いとは感じないのだそうだ。人間なんて、その程度のものなのだろうか。しかし海馬を失くした人は、記憶をできなくなるのではなく、脳の他の部分が海馬の代役をして記憶を保持するらしい。どういうことだろうか。  しばらく僕らは無言で闇の中を突き進んだ。それから速度を落とし、何度か曲がると、ある小さなトンネルの中で皇太は「あのたぬきをよく見とけよ」と言った。 「なんで?」 「行きと帰りとで表情が違ったらお化けが憑いてるかもしれないから」  さっきまでとは違ういたずらな表情で笑う皇太に曖昧な笑みを返し、僕はそのたぬきの石像を見た。彼は僕ではなく皇太を見ているような気がした、というようなことを言うと、意外なほど嫌がったのが面白かった。 「遅いんだけど」  車を停めるとミニスカートの女が近づいてきた。暗闇の中に彼女の赤い唇が浮かんでいた。歩くごとにふわりと巻かれた髪が揺れ、それが彼女の愛らしさを引き立てていた。ぼんやり眺めていた僕の方を向くと「中也くん?」と彼女は小首を傾げてわかりやすい作り笑いを浮かべた。それはとっても魅力的だった。 「うん、あなたは?」 「あなただって、変なの」  彼女はクスクス笑うと「有村優香」と名乗って両手を挙げた。女優みたいな名前だ、と思いながら僕らは意味もなくハイタッチした。それにしても、二人称は何ならいいんだろう。 「ここは?」 「雄島。まあ、心霊スポットみたいなもん。まだあんまり福井観光してないっしょ?」 「初観光が心霊スポットなの?かわいそ」 「だって東尋坊も結局似たようなもんだし」 「風呂は?」
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