東京

2/4
前へ
/44ページ
次へ
 皇太は、とカーテンの隙間を人差し指で少し開け、明るくなり始めた街を見ながら考える。見つけることができなかった。 いや、この世界が、皇太に気づくことができなかったんだ。彼とあれだけ話した僕でさえ、彼の世界を信じ、理解することはできなかった。 そんなことは他人にできることではないのかもしれない。しかし、彼はそれを必要としていた。 僕ももしかすると、それを求めているのかもしれない。信じられるものが、信じてくれる人が欲しかっただけなのだろう。 わからない。僕は、どうすれば生きることができるのだろうか。そんなに深刻な話ではないはずだ。 被害妄想でしかないのかもしれない。学生の僕らはまだ自分で生活をしているわけではなかった。しかしそんな錯覚をしていたのだろう。 そしてそこに存在しないものをいつも求めていた。それがなんだったのか。何が耐え難かったのか、僕らにはわからなかったが、だからといってその苦痛がなかったことにはならない。 現実を生きるということは、そういったことに鈍感になり、やり過ごし、考えるのをやめることなのか? そうではないはずだ。しかしあれからいろんな人とそんな話をしてみても、僕らにとって重要なことは、彼らにはどうでもいいこと、暇だから考えているとしか思えない逃避としか受け取ってもらえなかった。 家族でさえ、僕が遠くへ行くという最後の時までそれを「そんなこと」というひとことで片付けてしまう。 誰も本気にとってはくれない。だからきっと、間違っているのは僕らなんだ。世界は多数決で成り立っている。 僕らが良心だと思い込んでいるものでさえ世界一般の単なる多数決に過ぎない、と皇太は言っていた。 彼が言うには、殺人が悪だということすら絶対的な論理ではない。戦争になればそれは肯定され、むしろ誇りにさえなったと。 僕らは戦争を知らない。それは遠い昔の出来事で、どれだけの証拠を目の前に突きつけられても、本当の意味で実感することはできない。 今この時でさえ、紛争で亡くなる罪のない人達がいることを知ってはいても、それが現実感を持つことはない。これほど平穏な日々の中で、どうやっても生きられる社会の中で、どうして死を想わなければならないのだろうか。 死にたいわけじゃないんだ。ただ、生きられないと強く感じてしまう。そして、それは理由のないことなのだから、どうしようもなく救いがない。 何に対する罪悪感?僕の罪は何で、僕の罰は何なのだろう。わからないから、いつまでもそれを抱え続ける。傲慢で軽薄な生の呪いと死への憧れ。 考えるほどアホくさいことだが、けれどそれを拭い去ることができない。  小学生のころ、サッカー大会の空き時間に、友達と蛙を捕まえては殺していた。 大会は線路の近くの河川敷で行われていて、本当はそっちへあまり近づいてはいけなかったのだが、グラウンドから離れた湿地帯の先の線路へはフェンスもなく近づくことができ、その線路の上に木の枝で串刺しにした蛙を置いて電車が来るのを待った。  別の日には、爆竹を持ってきた友達が、それを蛙の肛門に入れて火をつけた。命の飛散に、僕らは不思議な高揚を覚えた。 しかしそれも繰り返されるうちに薄れていき、やがてつまらないものとなった。どうしてそんなことをしていたのか小さい少年にはわかっていなかったが、その儀式の先に何か特別なことが起きることを期待していたわけではなかったはずだ。 ただそこで散る命に、その残酷な行為自体に興奮していたように思える。理由のない殺戮。そんな衝動が僕らの中には存在している。 それなのに、父の車の助手席に乗って山道を通っている時に見た、轢き殺された狸の死体に、胸を強く痛めて嘔吐した。学校からの帰り道で猫の死体に涙し、持っていた傘で烏を追い払った。 それなのに、海水浴場で大きな海月を木の棒で浜辺に串刺しにし、小さな海月を岩場に投げつけて遊んだ。それなのに。 わからない。人間の中に存在する、死に対する感情の矛盾は、いったい何なのだろう。対象の大きさが問題なのか?それが自分に近いかどうか、それだけか?
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加