夏休み

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どれくらいの時間が経っただろう。もう何も考えられなくなっていた。曲がりくねった峠道をいくつ超えただろうか。あそこまで行けば下り道だと思っても、そこまで行くと斜度の違う坂が待ち受けているだけだ。そんな錯覚に悪態を吐く体力もなくなってきた頃、僕らは山の中に九頭龍温泉という看板を見つけた。 「オアシスだ!」  皇太は立ち漕ぎで駆けよろうとしたが、太ももが悲鳴をあげたのかすぐに座り直した。僕は笑おうとして思わずむせた。そしてようやくたどり着いた時、自転車を降りると身体中から力が抜けるように二人ともよろめいた。お互いに肩を貸しあって入り口まで歩く。 「どこの紛争から逃げ出してきたんだよ」 「お、まだそんなこと言う元気あるんだ」 「てか今何時?」 「一時過ぎ」 「思いつきで何時間自転車漕いでんだよ僕ら」  ずぶ濡れで息絶え絶えの僕らを見て、困り眉のフロント係のお兄さんが慌ててタオルを持ってきてくれた。心からの感謝を述べて風呂場へ案内してもらうが、そのタオル代はのちのちきっちり請求されていた。  シャワーでさっと体を流し、誰もいない大浴場に二人で倒れこむように浸かった。 「やばい、気持ちよすぎて死ねる」 「あー、これはフィンランドの温泉超えたわ」  それからしばらく、僕らは無言で疲れがお湯に染み出していくのを感じていた。水滴が落ちる音を聞いていると、体も意識も湯船に溶けていきそうだった。 「俺さ、小説家になりたいんだ」  ポツリと呟いた皇太。それは、初耳だった。だって彼は、家を継ぐんだと思っていたから。振り向くと、彼は天井を見上げ幸せそうに目を閉じていた。
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