バスの中

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バスの中

 笑い声が耳の中でこだました、ような気がする。斜め後方の乗客が簡易枕を膨らましていた。乗り込んだ夜行バスは狭く、隣との距離が近かった。隣の乗客は僕が乗り込むとすでに飲み物ホルダーにハイボールの缶を開けていた。歳は三十代前半、細身で前歯が出ていた。彼は僕が隣に座ると深いため息をついた。アルコールの匂いがした。  乗客を数え終わるとバスは名古屋から東京へ向けてすぐに走り出した。アナウンスは気だるげで、少し揺れが不安になった。電気が消えしばらくして、車内が暑く感じ始めたので上着を脱ぎたくなったが、隣を気にして我慢することにした。学生時代はよく皇太とこうやってバスに揺られていたっけ。あいつはわざわざ僕に合わせて行動することを楽しんでいた。彼が出すという新幹線代を僕が断るから。あの頃はどうでもいいことがなんでも面白かった。皇太のイヤホンがiPadから抜けて車内に爆音でアイドルのライブシーンが流れた事件では結局東京に着くまで笑いをこらえっぱなしだった。夜行バス自体もさほど苦痛ではなく、アイマスクや枕がなくとも爆睡することができた。今ではどうしてか眠れなくなってしまったので、僕は闇の中の焦点が合わない世界をじっと見つめ続けていた。  考えなければならないことがたくさんあった。しかしそれは本当だろうか?考えなければならないことなどあるのだろうか?そんなことをしなくても、僕は生きていた。少なくとも、生物的には生きていた。何かを考えなければならなかったような気がする。けれど、思考はぼんやりと焦点を結ばず、まどろみの中を漂うのみで、どこにもたどり着きそうになかった。  隣から、腕時計の文字盤を回すような歯ぎしりが聞こえてきた。僕は胸がヒヤリと痛むのを感じた。時間は、巻き戻ることをしない。しないというと、まるでできることだがしないというような印象を受ける。だからしないというのは間違っている。しかし僕はその時、時間は巻き戻ることをしない、と感じた。それは僕の希望と悔恨がどこかに混じっていたのかもしれない。皇太も、よく歯ぎしりをしていた。その癖は彼に似つかわしくなかった。だから僕はそのことを一度も指摘したことがなかった。隣の歯ぎしりの音に、頭の中が揺れるような苛立ちを覚える。皇太と初めて話した時も、僕は苛立っていたような気がする。それは、大学が始まった週の土日にあった親睦会のような合宿のせいだった。
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