untitled – TBC 11

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untitled – TBC 11

 言えばよかった。思っていることを、例え拙い言葉ででもいいから、全部。  小さな言い間違いや言葉の不足。すれ違いや誤解の原因なんて、多分ほとんどがそんなものなのだろう。数文字、単語ひとつを入れ替えただけで受け取る側の感じ方は大きく変わる。  一切の齟齬を来さず分かり合うなんて不可能だから、何度も話さなければいけないのだ。言葉ってなんのためにあると思うの、そう言って土屋を叱った一ノ瀬の顔を思い出した。 「──言えばよかった」  ほんの数秒前。  衝撃的な事実を伝えたわけでも、凝った台詞を口にしたわけでもない。それでも桜澤の背中のこわばりがその言葉を聞いた途端、ほとんど消えてなくなったのを掌で確かに感じた。 「圭史?」  名前を呼んだら、桜澤が顔を上げた。真っ赤になった目に険はない。 「一応すげえ考えた」  間近で顔を覗き込んだら桜澤は何故か狼狽えた顔をして目を逸らした。 「……何を」 「何を渡すって言えば受け取ってくれるかって。指輪とか」 「……」 「住むとことか、そういうことを色々。お前が欲しいか欲しくねえかは別として、俺が渡せるもんは何かって。でも、物は今すぐにでも渡せるけどなんか違う気がしたし、そもそもそれ以前の問題なんじゃねえかって思い始めて」  桜澤の指先に絡まったままの捩れたベッドスプレッドを取り上げて床に放った。両手で掴む肩の薄さに改めて驚きながら見開いた目を覗き込む。 「お前が結婚して、電車に飛び込みたくなるくらい辛かった」  本当に落っこちかけたことは言わなかった。そんなことを言おうものならまた鬼みたいに怒るに違いない。 「ずっと傍にいたいって前も言ったけど、あの時は自分がどうしたいかだけ考えてたと思う。だから、お前がどうしたいか聞きてえし、もし条件とかがあるならちゃんと言ってほしい──面倒くせえことだっていい」  動物の唸り声のような低い声が桜澤の喉から一度漏れたが、それだけで、言葉にはならずじまいだった。きつく噛み締めた顎の線と、ワイシャツの襟の下で浮き上がっているだろう首の筋。どうでもいいようなことが気になって、愛しくて堪らなかった。 「何でも言ってくれ。どうしても譲れねえことなんか俺にはねえ。お前以外はずっと、何でも誰でも、どうでもよかったんだから」 「そんな──投げやりな、お前」 「投げやりとは違う。半分だけ稼働してりゃいいって思ってやってきて、でもお前がいなきゃその半分だって動かねえし。だったらもう何もかも全部預けるから、お前の半分でいいから俺にくれ」  ひっ、という音が聞こえて、何の音だろうと頭の隅で考える。少ししてようやく、泣くのを堪える桜澤の喉から漏れる音だと気がついた。 「嫌なら嫌って言ってくれ。何をどうしたらいいかちゃんと聞きたい」 「……やな、」 「何?」 「嫌なわけね……」  空気が突如固形になったとでもいうように苦しそうに息を吸い、桜澤は掻き毟るように両手で自分の顔を覆った。 「ごめん──!」  掠れた声が指の隙間から漏れてくる。拒絶されたかと思ってどきりとしたが、そうではなかった。桜澤は顔を覆ったまま土屋の方に身体を傾けた。土屋の胸に桜澤の額が当たる。この間とは違う、安堵を色濃く滲ませた嗚咽が桜澤の身体を揺らす。 「土屋……」  絞り出すように、食いしばった歯の間から押し出すように口にされる自分の名前に思わず涙が出そうになった。苦しめたのは自分なのに、と今更思う。気づくのも動くのも遅すぎた。自分も他人も傷つけて、そのことに気付きもしないくらい鈍感だった。  言い訳なんかできないし、誰にも許してもらえないだろう。それでも別に構わない。例え許されなかったとしても、積み上げていく何かがそれを凌ぐくらいになればいい。  つけてしまった傷をなかったことにはできないけれど、開いた傷口から血が流れないように、例え縫い目が曲がっていても塞ぐことさえできるなら。  桜澤が土屋のスーツのラペルを両手で荒々しく掴む。土屋の胸に頭を押し付けたまま発せられる掠れた声が、土屋の骨を震わせた。直接身体に突き刺さるように、細く、鋭く。 「ずっと好きでごめんな、土屋──」  がりがりと、犬が奥歯で与えられた骨を齧るように。桜澤を細かくすりつぶして飲み込んでしまいたい。  床の上のベッドスプレッド。  綺麗に整えられたベッドが二台もそこにあるのに、床の上で桜澤を組み敷いた。屹立したものから透明な雫が垂れて股間を濡らす。自ら触れようと伸ばした桜澤の手を掴んで遠ざけ、力づくで床に縫い留めた。 「この──!」  標本にされた蝶のように動かせない四肢を強張らせ、涙目で睨みつけてくる。文句は無視して穿つ動きを激しくしたら、桜澤は仰け反って喘ぎながら首を打ち振った。  開かせた脚を抱え上げ、限界まで触れ合おうと身体を進めた。  俺の腹の中には一体何が詰まっているのだろう。血と肉と骨、それから怠惰な自我と、サクラ、サクラ、サクラだけだ。 「ん、土……」  目尻から、立ち上がったものから。上からも下からも。  揺さぶられるまま声を上げ身悶える桜澤の身体中から。  漏れ出すのは単なる体液なのか、それとも、注ぎ込まれた土屋の中の何かなのか。 「圭史」 「あっ、あ、あ」 「お前とまざってひとつになったらいいのに」 「ん──ぁあ……っ」  どちらの何か、混じり合って判別できないものでぐずぐずに濡れた部分を押しつけ擦りつけて、ひとつになろうともがき続けた。艶めかしい声を上げてよがる桜澤に突き入れて、おかしくなった動物みたいに歯噛みする。そうして身体の隙間を、五年の隙間を埋めようと必死になった。  二度と間違いたくない。今度失ったら多分本当にどこかに落っこちて、そして二度と這い上がれない。嘗ての自分なら何を言っているんだと自分自身に呆れただろうが、少なくとも今の自分は、己の無知と無力を知っている。 「お前が好きだ」  最善の道はどれなのか。  どう表現すれば思いを余さず伝えられるのか。  すべてに答えが出るまで待つべきだったのかもしれないと思ったが、伸ばした手で一度触れたらもう止めることなんかできなかった。 「つちや」  桜澤が、嗄れた声で土屋を呼んだ。  くしゃくしゃになったスーツの上着に紅潮した頬を押し付け、桜澤は呟いた。 「お前には……分かんねえ」 「何がだ」 「多分、一生、分かんねえ」  間違ったのか?  一拍飛んだ心臓の音。一拍分不足した血液の分、心臓が冷えた気がした。 「何が──」 「……自分のじゃねえ、」  桜澤がゆっくりと土屋に目を向けた。なぜか眼球の動きがやけに緩慢に見える。桜澤は土屋を見つめ、己の手首を掴む手を振り払った。自由になった桜澤の右手が伸ばされ、土屋の頬に躊躇いがちに触れる。 「他人のもんで腹ん中掻き回されて、気持ちよくて──そんで、嬉しくてたまんねえって……お前に分かるわけねえ」  頬を撫で下ろした指が顎に触れ、土屋のうなじを優しく掴む。 「身体ん中から、俺、お前のもんにされんだって思ったら、幸せすぎて死にそう、だとか」 「圭──」 「俺……ゲイでもねえのにそれっておかしいんじゃねえかって──でも、もうおかしくたっていい、何でもいい」  土屋の中で何かが弾け、溢れて漏れ出した。 「なあ土屋──俺、欲しいと思ってもいいのかな」  土屋の頰を伝う涙を桜澤が掌で乱暴に拭う。土屋が身じろぎしたら桜澤は悩ましげに眉を寄せたが、土屋の頰に添えた手は揺れながらも離れなかった。 「そんな資格ないって分かってるけど……」  誰もが正しいばかりではいられなくて、時には取り返しがつかないほどひとを傷つけ、自分も傷つき呆然と立ち竦む。  どこまでなら許されるのか。何を基準に幸せになる資格を取り上げられるのか。きっと誰も分からない。だから、資格があるのかないのかなんて気にしていたって仕方がない。  やってみるしかないのだろう。為せば成るなんて幻想だが、努力してみなければ成るものだって成らないのだ。  土屋は桜澤の手を取り指先に口付けた。濡れたそこは、土屋の涙の味がした。  蓑虫みたいになった布団を剥いたら桜澤の顔が現れた。  初めて寝た時と同じだ。だが、表情は以前とは少し違う。ただ不機嫌で気まずそうだったあの時とは違って、今はどこか心許ない顔をしていた。 「何だ」 「何だよ」 「何で隠れてんだ」 「別に隠れてねえけど」 「じゃあ何で潜りっぱなしだよ」 「だから何でもねえって」 「でもなんつーか、失敗した、みてえな顔?」 「そんなんじゃねえって」  重なった寝具をかき分けるようにして上体を起こした桜澤は、土屋が煙草を銜えているのを見て周囲を見回した。桜澤の煙草は多分スーツの上着の中だろう。ベッドの足元に固まっている服の山の中にあるはずだったが、土屋は自分のパッケージとライターを差し出した。  ほとんど聞き取れないくらい小さな声で礼を呟き煙草を銜えた桜澤は、酷くゆっくりと、深呼吸するように煙を吐いた。  暫くそのまま無言の時間が続いたが、急かそうとは思わなかった。桜澤はもう何も言わないのではないかと思うくらい長い間の後、口を開いた。 「何て言やいいのかよく分かんねえけど」  桜澤は煙を眺めたまま、土屋に視線を向けず続けた。 「これで何もかもうまくいくのかとか、わかんねえし」  土屋は煙草を揉み消して、桜澤に手を伸ばした。顎の下に収まった小さな頭とぐしゃぐしゃに乱れた髪。細い肩は女よりはずっと硬くてしっかりしているが、土屋の腕の中では華奢に見えた。 「もし……」 「何かあったらちゃんと話せばいい」  遮って言うと、少し経って桜澤の頭が微かに縦に振られた。  煙草を取り上げ、吸いつけてから灰皿に放る。桜澤がしたようにゆっくりと息と煙を吐き出しながら、土屋は改めて裸の肩を抱き寄せた。 「俺がまた言葉が足りなくなったら言ってくれ」 「──でかくて邪魔だけど、仕方ねえから置いてやるよ」  顔は見えず、どんな表情をしているかは分からない。だが、生意気な物言いで覆った真意はきちんと伝わった。それでも、叱ってくれたひとを思い出し、土屋は敢えて問い返した。 「どこに?」 「──ここに。ここにいろよ。俺の傍に」  桜澤は、大事な何かをそっと取り出すようにそう口にした。  乱れた髪が突っ立つ頭のてっぺんに口づけて、土屋は小さく溜息を吐いた。 「邪魔だっつっても退かねえよ」  あの頃は見えなかった行き先。今はやっと見えたそこに、多分いつか辿り着けるだろう。  この関係にもきちんと名前がつくかもしれない。桜澤にだけ感じた特別な何か。それを何と呼ぶか知ったように。 「なあ、やっと確定した、俺ん中で案件名が」 「はあ? 案件名? 何のことだよ」 「五年前は決まってなかったけど」 「だから、何だよ?」 「俺は、お前を」  頭蓋骨から頭の中に、きちんと響いて届くように。  土屋は仰向かせた桜澤の額に唇を押し付けて、ようやく見つけた言葉を口にした。 TBD- To Be Determined(未定) TBC- To Be Confirmed(確認中)
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