untitled – TBC 7

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untitled – TBC 7

「どうしたの、突然」  ドアを開けた一ノ瀬は膝の抜けたグレイのスウェットパンツに、襟元が伸びプリントが色褪せたTシャツという、びっくりするくらいよくある部屋着姿だった。自宅にいて普段どおりびしっとしていたら驚くが、なんとなく一ノ瀬ならそれもあるような気がしていたのだ。しかし実際には土屋や土屋が知っている他の野郎と違いはなく、独身男性が会社から帰って寛ぐ図そのものだ。 「ちょっと」 「ちょっとじゃ分かんないけど……まあいいや、廊下に立ってたら邪魔だし、とりあえず入んなよ」  桜澤のところを出て話したいことがあると連絡を取ったら、一ノ瀬はすでに自宅に戻っていた。半ば強引に自宅の住所を聞き出すと、電車で一駅のところだった。今の住まいが同じ沿線というのは知っていたものの、部署も変われば飲み会で一緒になることもないから具体的な最寄り駅までは知る機会もない。  たった一駅という近さは果たしてそういうことが起きた後の二人の距離と同等なのかと邪推して、そんな自分に辟易しながらタクシーを捕まえた。一ノ瀬に会ってどうしたいのかは考えていなかったが、このまま部屋に戻って週末いっぱい煩悶するのはご免だった。  一ノ瀬の後について部屋に上がる。一ノ瀬はキッチンスペースの冷蔵庫を開けていた。後姿を見ながら一応失礼にならない程度に部屋を見回した。ごくありふれた独身男の部屋だ。野暮ったくはないが、思ったほど洒落てもいない。インテリアに金をかけたモデルハウスのような空間を想像していたが、単なる思い込みだったらしい。 「何か飲む? ビールと発泡酒とウィスキーしかないけど」 「いや……」 「って、だってさあ、土屋」  冷蔵庫のドアに手をかけたまま振り返った一ノ瀬は、日本人にしてはやや色素の薄い目を土屋に向けて僅かに首を傾げた。 「桜澤くんのことで来たんでしょ? アルコール入んなくて全部ぶちまけられんの?」 「──連絡、来たんですか」 「え? 連絡って?」  一ノ瀬はぽかんとした顔をしたが、冷蔵庫がピーピー言い出したので我に返ったらしい。ビールの缶を取り出しドアを閉めた。 「誰からも連絡なんかきてないよ。ほら、座んなよ。俺自分よりでかいやつに見下ろされるの嫌いなんだよね」 「……俺は別に嫌じゃないっすけど」 「土屋は滅多にそういう場面に遭遇しないから気にしないでいられるんだって。男のプライドは高くて脆いんだからさあ、ほら、邪魔!」  押し退けられて仕方なく場所を移動し、早く座れと促されてローテーブルの前に腰を下ろした。ソファは置かない主義なのかそれとも特に意味はないのか、リビングには十分なスペースがあったが、テーブルの周囲にあるのは腰を下ろせる硬めのクッションだけだった。 「寝ちゃうじゃない、ソファがあると」  訊かれ慣れているのか、一ノ瀬は土屋にビールを差し出しながらクッションを顎で指した。 「前は持ってたんだけど、帰ってきて飯食ってテレビ見てたりしたらそのまま朝まで爆睡して腰痛くしたりとか何遍もあって。さすがにテーブルに突っ伏して朝まで寝たりはしないもんね」 「そういうタイプには見えないっすね」 「俺が? ああ、デザイナーズマンションでブランデーグラス回してそう?」 「そこまでじゃないっすけど、ビールはグラスに注いで飲むのかなと」 「うーん、まあ気が向けばねえ」  一ノ瀬は笑って、ビールの缶に口をつけた。 「で、何で?」 「──はい?」 「何で俺のとこ来たの」 「……」 「桜澤くんから何か聞いたから?」  頷いたら一ノ瀬は曇った缶の表面を指で撫で、また一口呷ってから缶を置いた。テーブルの上に加熱式煙草が置いてあって、手に取ったから吸うのかと思ったら、妙にスタイリッシュな形のそれを弄ぶだけで吸おうとする様子はなかった。土屋も加熱式は持っているが、基本は紙巻だ。だから他人の部屋ではあまり吸わない。  煙草が欲しいなと考えて、ついさっき灰皿で捻り潰された細い葉っぱの塊と、同じくらい細い指の持ち主をまた無意識に思い浮かべた。 「──付き合ってるんですか、今も」 「桜澤くんがそう言った?」 「いえ」 「だよねえ。付き合ってないし、付き合ったこともないよ」 「でも」 「やることはやっちゃったね、そういうことなら。奥さん出て行くちょっと前だから……一年くらい前になるのかな? 確か三回会ったけど、でもそれだけで付き合ってるって言う?」 「──言いませんね」 「彼がなんて言ったか知らないけどさあ、誘ったのは俺だからね」 「……」 「庇ってないよ、言っとくけど」  一ノ瀬は口元だけで笑い、手の中の加熱式煙草をテーブルに戻して髪をかき上げた。  桜澤を庇って自分が誘ったと言うのは、いかにも一ノ瀬が言いそうな台詞だった。  やることはやっちゃった、なんて悪びれるふうもなく一ノ瀬は言ったが、軽佻浮薄な外見に反して意外と誠実な質なのを土屋はよく知っていた。別に親しかったわけではないが、何年も同じ部門で同僚だったのだ。本人がよほど隠そうとしなければ、大体の人柄くらいは見て取れる。 「一ノ瀬さん──」 「あのさあ、どっちが積極的だったにせよ、拒まなかったって時点で彼も悪いよね。俺だけの責任だとか言う気もないし、思ってないから。桜澤くんはずっと土屋のことが好きだったんだよ」  突然言われて思考が固まった。何となくそんなこと──近いことは考えていたが、他人に言われると頭が追い付かなくて空白になる。手に持っていた缶の冷たさだとか一ノ瀬の声だとか、五感が一瞬機能停止し、またすぐに戻ってきた。 「でも……あいつの性格からして、好きじゃない女と結婚なんて」 「そりゃそうでしょ。一生をともにするつもりでするんだよ、結婚は。奥さんのことは勿論好きだっただろうけど、それとは別の話だよね」  そう言われても、恋愛全般が面倒な土屋にはよく分からなかったから黙っていた。 「──奥さんとうまくいかなくて、欲求不満解消するだけならどこかの風俗でもいいのに、ゲイでもない彼が何で俺とそういうことしちゃったか分かる?」 「そんなの知るわけねえ」  思わず吐き出した低い声に一ノ瀬は小さく笑ったが、やっぱり目は笑っていなかった。 「お前に連絡したら、本当の本当に奥さんを裏切ることになるからだと思うよ。お前のこと好きだから」 「それで何で」 「似てるんだって。俺が、お前に」  一ノ瀬は立ち上がり、どこが、と独りごちた土屋の前に灰皿を置いた。そうしながらも本人はやっぱり煙草を手に取らず、二人の間には小さな白い陶器の灰皿が取り残されたままになった。 「こうね、」  そう囁いて一ノ瀬はテーブルに頬杖をついた。 「頬杖ついて覗き込んでくる角度が似てるんだって」  鼻の奥が痺れたように痛くなり、土屋は掌で口元を覆った。 「それだけなんだよ。いじらしいよね」 「──だったらどうして」 「終わらせたかって? 土屋も桜澤くんも等しく分かってなかったんでしょ。言葉って一体何のためにあると思うの」  一ノ瀬の口調はそのままだったが、声音は酷く鋭かった。雑談しているときとはまるで違う、仕事でこちらがやらかしたのを指摘する上司そのものだ。 「土屋のは、桜澤くんなら今までの最低限以下の語彙でも汲んでくれると思って言葉を探そうともしなかった怠慢じゃない? 彼のは、お前が自分で考えて答えを見つけるはずで、そうでなきゃ受け入れられないって考えた厳しさかな。土屋に求めたって仕方ないことだって分かってただろうにね」 「……馬鹿にしてます?」 「してないよ。それはだから、個人の特性ってもんでしょうが」  一ノ瀬への嫉妬は今も腹の奥で煮えていた。だが、それは一ノ瀬本人への怒りにはどうやってもならなくて、もっと内に向かうものだった。 「ああ、でも桜澤くんのは厳しいとか言うより怖かったのかな。うん、そっちかも。多分そうだね」  一ノ瀬は表面が水滴で濡れ始めた缶を持ち上げ、ちょっと眉を寄せた。 「怖いって何がですか」 「お前に飽きられるのがじゃないの?」 「……」 「あとは、お前の負担になるのが」 「負担って」 「だって、男同士でお付き合いしたら色々大変なもんでしょうが。お前そういうこと考えた? ずっと一緒にいるってどういうことか」 「それは──」  一ノ瀬は黙り込む土屋を急かすことなく、ビールの缶の表面に指先で模様を描いていた。 「……付き合ってたわけじゃねえし」 「うん」 「俺はただ、あいつといたら楽で」 「うん」 「それだけでよくて──」  それ以上口に出せずに黙り込んだ土屋の頭に一ノ瀬の手が乗った。子供にするように一ノ瀬の手が土屋の頭を優しく撫でた。  結局ほんのわずかな時間一ノ瀬と話したからって何がどうなったわけでもない。それなのに重たかった腹の底がいくらか軽くなった気がするのが謎だった。  友人がいないわけではないし、感情がないわけでもない。極度の面倒くさがりだという自覚はあるものの、だからと言って他人より酷く何かが劣ると思ったこともなかった。  だが、多分そうではなかったのだろう。自分の心すら分からない人間が、他人のそれを推し量れるはずもない。他人に平気で迷惑をかける若い奴や浮気女。想像力の欠如した人間はどうしようもないと思いながら、蓋を開けてみれば自分だって大差なかった。  桜澤を特別と言いながら、桜澤が何を望むかなんて考えもしなかった。自分の手の届く範囲で見つけた言葉を放り投げて、受け取ってもらえたと思い込んだ。実際には地べたに落ちていたそれを桜澤がどんな思いで拾って眺め、そうしてまたそっと元のところに戻したかも知ろうとしないで。  そんな桜澤をちゃんと見ていたのは土屋ではなく一ノ瀬であり、桜澤の妻だったのだ。  その後は暫く仕事の話をして、海外ドラマとかテレビ番組とかのどうでもいい話をした。そろそろ帰ると土屋が言うと、一ノ瀬は喜びも引き留めもせず、そうか、と言って土屋と一緒に立ち上がった。 「もしかして桜澤くんところから直接来たの?」  玄関で靴に脚を突っ込み頷いた土屋に苦笑して見せ、一ノ瀬は一応言っとくけど、と言いながらスウェットのポケットに両手を突っ込んだ。 「近くに住んでるの、そういうアレじゃないからね」 「アレ」 「うん、アレ。俺はここ三年くらい住んでるし。彼がこっち来たのは、俺がいるからじゃないよ」 「それ──」 「お前、アレとかソレとか、そればっかだねえ。土屋が知ってるのか知らないのか知らないけど、一応俺、過去に桜澤くんに振られてんだからね? それなのに俺の口からさあ……まあいいけど。だから、土屋がいるからでしょ」 「……一ノ瀬さん」 「ん?」 「何で色々話してくれたんですか」 「何でって?」 「だってあいつのこと」  昔桜澤を好きだったと言いながら、どうして背中を押してくれるのか。 「それはもう昔のことでしょ。それにそれとこれは別だよ。俺はずっと二人とも見てんだよ。二人とも可愛い後輩だから幸せになって欲しいし」 「……」 「戻る?」  三和土に突っ立つ土屋を見て、一ノ瀬は首を傾げた。どこへ、とは訊ねなかったが訊くまでもない。 「いや──」  一ノ瀬が形のいい眉を引き上げたが、土屋はそのまま語を継いだ。 「弱ってるとこに畳みかけるってのはまあ有効だとは思いますけど……さっき鬼みてえなツラしてたし、そういうときは弱ってても俺の手には負えねえから改めます」 「そう。ちゃんとしなよ」 「一ノ瀬さん」 「うん?」 「ありがとうございます。すみませんでした」 「どういたしまして」  素っ気ない声とともにあっさりドアは閉められたが、ドアが閉まる寸前に見た一ノ瀬の目は穏やかに笑っていた。
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