第1章

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 仏壇に向かって「引っ越しはゴールデンウィークにしますね」と母が手を合わせた。 遺影の中で微笑む父に言ったのはわかったけれど、「引き渡しはいつなの?」と、返してみた。母の言葉が宙に浮いてしまうのが、なんとなく淋しかったからだ。特別答えが知りたいわけではなかったので、私はまたテーブルに向き直りトーストをかじった。 大正から三代続いた下駄屋を閉めたのは、半年前のことだ。父にすい臓がんが見つかり、余命半年と宣告されたのがきっかけだった。 一人っ子の私は大学を卒業した直後まで、下駄屋を継ぐつもりでいた。 父が私に下駄の作り方を教えてくれることはなかったけれど、邪魔にされたことも一度もなかった。店を継いで欲しいと言われたことも無かったけど、幼い頃から継ぐものだと思い込んでいた。だから、大学での就職活動も一切しなかった。 なのに、今は運動靴を主に扱うスポーツ用品会社に勤めている。  大学三年の時にも、一度母からこの会社を勧められたことがあったけれど、その時は全く持って取り合わなかった。  面接を受けようと思ったのは、十年前に父が漏らした一言がきっかけだった。同じ日に起きたとてもショックな出来事のせいもあって、とにかく私はその日以来下駄を作ることも、下駄屋を継ぐことも心底いやになってしまったのだ。
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