8人が本棚に入れています
本棚に追加
三十二年間、この地に住んでいる。
一時期は工場から出る排水のせいで、川はまるで溝(どぶ)みたいだったそうだが、ものごころついた時には今のように澄んだ水の流れになっていた。毎年鮭が遡上してくるほどに、水質は改善している。河川敷にはグラウンドやテニスコート、サイクリングロードに公園まで整備されていた。幼い頃から格好の遊び場だった。いつしかここを犬と散歩したいとも、願うようになっていた。
その夢が叶ったのが、大学一年生の時だった。
クリスマスにやってきたから「サンタ」と名付けた。
翌年の春、初めて三太と一緒に歩いた河川敷の景色は、それまでとは明らかに違って見えた。一斉に咲き始めたレンギョウやユキヤナギ、ヤマツツジの鮮やかな色彩が、ひと際輝いて見えた。朝露に濡れる芝草の新鮮な青臭さが、何とも言えず心地よかった。タンポポがいつ綿毛になるかが気になりだしたのも、三太と散歩をするようになってからだ。
遠くに見える山の稜線を目で辿り、家に帰っては名前を調べた。
季節ごとに変化する空気の匂いも、存分に楽しむことができていた。
けれど、二十二歳のあの日以来、変化する川沿いの空気は全く嗅ぎ分けられない。匂いだけではなく、大好きだったはずの川原の景色までが、霧に包まれたように色を失った。
無意識のうちに足は遠のき、三太との散歩はビール工場跡地にある公園ばかりになっていた。でも、引っ越すまでの間は、出来る限り川原で散歩をしてあげたい。そういう気持ちになったのは、ここを離れる日が近いせいなのだろうか。
最初のコメントを投稿しよう!