嫌煙の叫び

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 吸い慣れない煙草の煙が目にしみた。夜。運転中。左手から短い煙草が滑り落ちた。「あっ」と声が溢れた。そして男は「ぎゃっ」と叫んだ。煙草を挟んでいた指が、黒い芋虫のように蠢いていた。いや、それは実際芋虫だった。腹から喉に向けてよじるような悪寒がこみ上げ、喉が胃液で熱くなり、嫌な匂いが鼻に抜けた。反射的にブレーキを踏み込み、暗い一本道の真ん中で車は前のめりに停車した。体から遠ざけた左腕を大きく振るも、芋虫はやはりそこから生えていた。男は狂気に駆られ二本の指をダッシュボードに叩きつけた。 「ぐあっ!」  痛覚は男のものだった。潰れた芋虫は闇の中でテカテカと光る液体を吹き出しながら、より活発に蠢きだした。男は小さい頃、車のドアに指を挟まれたことを思い出した。夏で、バーベキューの帰り道、まだ子供だった男が乗り込もうとした時、ふざけた兄がドアを閉めたのだった。あの時の、体の感覚が一本になり、他の部位がしんと静まり返るような、原始生物的な痛みだった。歯を食いしばり過ぎたのか顎の筋肉が引きつり、歪んだ口が戻らなくなった。それでもまだ右手を伸ばしギアをパーキングに入れてサイドブレーキを引くくらいの冷静さは残っていた。しかしハザードランプをたくほどの余裕はなかった。  ドアを開け外に出た男は、理由もわからず走りだした。しかし逃れたい芋虫は彼の手の先でいつまでも身をよじっている。闇の中から恐怖が胃の中に忍びこみ、内側から彼を引き裂こうとしているようだった。足が絡まり、男はアスファルトに向けて勢いよく飛び込んだ。右側の頬、肩、肘、大腿部、膝、踝。これは自分の体の痛みだ、と思うと嬉しかった。しかしどうして自分は左側をかばうような転び方をしたのだろう?痛みが分散し、男はわずかに思考を取り戻した。もしかすると、この芋虫は俺を乗っ取ろうというのではないか。そう考えるとゾッとした。  男は蹲ったまま体の下にある右手をポケットに突っ込んだ。そこにはライターがあった。ナイフはなかった。ナイフを持ち歩いている人間なんていない。それは残念なことだった。しかしライターがあった。焼き殺してやる。  その時だった。左腕の表面が疼いたような気がしたのだ。音が消え、男の全意識が自分の左腕に注がれた。鼓動が音もなく、振動でその存在を伝えていた。男は見た。体表が膨らみ、よじるのを。 「かまうものか」  男は歯を食いしばり、蠢く芋虫の指にライターの火を近づけた。彼らは熱を感知しお互いに絡み合いながら身をそらす。己の身を大事にするその姿の滑稽さを男は鼻で笑った。そんな抵抗は無駄だ。しかし無駄だったのはそんな男の決意だった。自分の指を火で焼き切ることなんて不可能だ。一瞬の痛みを我慢するために強く噛んだ唇から血が滴り、口の中を鉄くさく染める。そして指を詰めた痛みに、火傷による痛みが波のようにじわりじわりと周期的に加わることになった。  男は声を上げて笑い出した。そして立ち上がると腰をかがめたまま芋虫をアスファルトに擦り付け走りだした。 「やめてくださいやめてくださいやめてください」 「痛いです痛いです痛いです」  何故だか男は胸の内から残酷な喜びが込み上げてくることに気がついた。痛みが増し、キーキーうるさい声が大きくなるほどにその喜びは増していった。 「やめてくださいやめてくださいやめてください」 「痛いです痛いです痛いです」 「ハハハハハ」  息を切るような笑いが腹から込み上げてくる。こんなに愉快なのは久しぶりだった。いや、もしかすると人生で初めてのことかもしれない。そして笑い声に反し男は自分の顔が表情を失っていくことにも気がついていた。顔の筋肉はもうほとんど意識して動かすことができなくなっていた。しかしそんなことはどうでもよかった。男は車に向けて走り続けた。男の走る後には黒い線が二本引かれ続けていた。  男は息を切らせながら車のエンジンをかけ、サイドブレーキを解除し、ギアをドライブに入れた。車はゆっくりと前進を始める。そして男は右側のタイヤの前に左手を差し出した。危機を察した芋虫が喚き声を上げるのが愉快でならない。 「お前たちは俺のものだ。逃げ出すことはできない」  そしてついにタイヤが男の小指を踏み潰そうとした時だった。男の左腕は関節ではないところからぐにゃりと曲がり、すんでのところで圧縮を回避したのだった。皮膚が裂け、男の顔に生温い液体が飛び散った。目の前にはこぶし大の芋虫の顔があった。そいつはニヤリと笑うと「ありがとう」と言った。男はその顔を踏みつけようとしたが、そいつは器用に身をよじってかわすと男の首筋に噛み付いた。  こいつはいいや、と男は思った。俺が死ねばこいつを殺せる。自分で自分の首を絞めてやがる。これだから虫公は。笑えるぜ。だから男はそいつの好きにさせておいた。しかしその時、男はそれでは自分が死ぬことに気がついた。それはいけない!けれどもう遅かった。  彼の目には、自分の姿が映っていた。その男は嬉しそうに笑うと、車に乗り込んでライトをつけた。彼は眩しい、と思った。そして自分の体がずいぶんと動かしづらいことにも気がついた。目を覆う手がなかった。目の前に煙草の吸い殻が転がっていた。彼の煙草と同じ銘柄だった。ずいぶん大きいなと思った。黒い壁が目の前に迫っていた。ゴムの焼ける匂いがした。
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