梅も桜も

1/1
14人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
――嘘だ、嘘だ。誰か嘘だと言って! ギュッと目を瞑ってからもう一度開けば、夢から覚めるんじゃないか。もしかしたら、今は嘘の世界にいて、目を開いたら本当の世界に戻っているんじゃないか。そう思う程に、僕は目の前の出来事が信じられないでいた。 * 「ねえ駿也。明日梅を見に行かない?お城の梅林が見頃なんだって、さっきニュース番組でやってたの」 金曜日の夕飯を食べながら、母が何時になくそんな誘いをして来た。 「ムリー。明日は圭祐と約束してる。」 「えー。たまにはお母さんを優先してくれてもいいじゃない。行こうよ」 「ムリムリ。“約束は大事”っていつも言ってるの、お母さんの方だよ」 「う…ん、まあそうなんだけどさ…」 中学生にもなって、誰が“家族とお出かけ”とか行きたい?あっさり断り文句を口にした僕だけど、母の眉を少し下げた悲しそうな表情はちょっと心に引っかかるモノがあった。だから僕は、つい思ってもいない言葉を口にした。 「また今度誘ってよ。次は行くから」 「今度ね。…じゃあ桜!桜の時は一緒に行こうね!」 「はいはい」 僕の言葉で簡単に母の瞳が輝きを取り戻し、生き生きとした表情になった。僕はその事に満足し過ぎてしまった。 * 「ねえ、お堀の桜が見頃だよ。明日か明後日一緒に行こうよ。」 「えー、もう友達と約束した」 正確には“これから約束する”だけど。 「一緒に行くって言ったじゃない」 「言ったっけ?ああ、でも今年とは言ってないでしょ。桜は来年も咲くよ?」 「はあっ?もうっ!」 結局、桜の時期ものらりくらりと返事を躱し、母と一緒に出掛ける事はなかった。 僕のつまらない言い訳に、母は少し呆れた顔をしただけだった。 「そうね、桜は来年も咲くわね」 そう言って。 * 「馬鹿ーーーーーーーーーーーーー!」 僕は息が続かなくなるまで必死に叫んだ。 風の強い日だった。煙突から昇る煙は上がった側からドンドンと流されて行く。頬に冷たいモノが流れるのを感じながら、吹き飛ばされて消えて行く煙を見上げていた。 馬鹿、馬鹿、馬鹿。 お母さんの馬鹿。 居なくなっちゃうなんて。 神様の馬鹿。 こんな意地悪をするなんて。 違う。 一番馬鹿なのは僕自身。 梅も桜も来年も咲く。だけど、お母さんはもう居ない。 どうして僕は、過ぎた時間は取り戻せないなんて当たり前の事に気づかなかったんだろう。 ゴメン。ゴメン、ゴメンねお母さん。 いくら叫んでも、僕の声を母に届ける事はもうできない。 〈end〉
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!