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また前髪を切りすぎた。風呂を出たあとの濡れた髪でやるからこうなる。敗因は分かっているのに、これで、切りすぎたのは何度目だろう。これでは、目立ち始めた眉間のしわと弛み始めたおでこのしわが隠れない。
鏑木梅乃は鏡の前、右手で歯を磨きながら、左手で短い前髪を引っ張った。
嫌なことがあった日の夜は、爪か髪を切る。いつからか、それが『可哀想な私からの脱却するための儀式』となった。爪はおととい切ったばかりだから、昨夜は髪を切るしかなかった。
これで今日も嫌なことがあったら、もう切るものはない。
「ケーキでも買ってくるか」
腰回りの肉をつまむとため息をついた。歯ブラシをくわえて、うっかり寄せた眉間のしわを、両手の人さし指で外側へ引っ張る。
いつか、加齢は素敵なことだと思える日が来るのだろうか。テレビに出ているような、グレイヘアの上品なマダムになることができるのだろうか。
「ヤバ! メイクしてる時間なくなる」
洗面台の上に置いた小さな時計を見て、梅乃は慌てた。今朝は営業ミーティングだった。
梅乃は、商社の食品営業部の課長として働いていた。業界では名の知れた会社だ。各地の小さな加工食品メーカーや製造業者の作る加工食品を仕入れ、スーパーをはじめとした様々な小売店に紹介し卸す、そんな仕事である。
今朝は、新商品の勉強会を兼ねたミーティングの予定だった。遅れて行ったら、先輩だけれど部下の嫌味の餌食になる。それを見る部下の冷ややかな視線が思い出されて、急いで口をゆすいだ。
先輩の安原悟司は、梅乃の部下だ。いちいち細かくて、まどろこしい説明をしたがる少し面倒な男だった。まぁいい、この男は話さえ聞いてやればなんとかなる。
問題は、梅乃よりも十歳も下の部下、富樫康大だ。こちらは、理解が早く仕事への取りかかりも早い、優秀な部下だ。
ただ、性格に難がある。合理的で、ドライなのだ。明らかに、感情的な女上司をバカにしている。梅乃にはそれが、ひしひしと伝わってきた。
だからといって負けていられない。こちとら人生がかかっているのだ。
「うめちゃん、そろそろ時間じゃないかい?」
祖母の声がキッチンから聞こえてきた。
「うん、大丈夫。分かってるよ」
髪をさっとまとめると、大股の駆け足で、メイクをすべく梅乃は部屋へと急いだ。
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