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58:黒煙の中
クライヴはユナと踊っていた。
ずっと見つめているが、ユナの目線はいつも逸れていた。その先にはフィーベルの姿がある。彼女はユギニスと踊っている。すぐ隣で踊っているのだ。少し緊張している面持ちだったが、しばらくすると楽しそうに顔をほころばせていた。
ユナは彼女をただ真っ直ぐ捉えていて、心なしか、いつもより表情が穏やかだ。クライヴはいつものようににこっと笑った。
「『どこを見ているの? 僕と話さない?』」
するとユナがこちらに気付く。
嫌そうに眉を寄せた。
「なんですか急に」
「あ、やっとこっちを見てくれたね。ユナ殿、踊り慣れているなぁと思って」
「ユギニス殿下の側近なら、これくらいできます」
「もしかして男性の踊り方も知っていたりする?」
「ご要望であれば今からできますが」
「さすがだね」
ははは、と声を出して笑う。
そしてまた、優しい眼差しになっていた。
「ダンスが上手いな」
「そ、そうですか? あまり踊ったことがなくて」
ユギニスに褒めてもらえるのはありがたいが、フィーベルはとにかく足を踏まないように意識していた。何度も練習したし、シェラルドとも踊ったことはある。が、その機会は多くない。今だって次のステップがどうだったか、思い出しながら踊っている。
すると苦笑された。
「そこまで慎重にならなくていい。今日は無礼講だ。ダンスの出来よりも、ただ楽しんでもらえたらいい」
「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ。宝石について、ヴィラ殿と共に体を張って調べてくれたと報告を受けている。感謝する」
これにはフィーベルも笑顔で応える。
「お役に立てて嬉しいです」
ユギニスは一瞬遠い目になった。
眼差しは優しく、続けてこう言われる。
「後で二人きりで話したい。クライヴから許可はもらったんだが、いいか?」
「はい。もちろんです」
クライヴがいいと言ったのなら、こちらが拒否する権利はない。そうでなくても、相手が話したいというのなら、喜んで話し相手になる。フィーベルは特に疑うこともなく、あっさり頷いた。
「そういえば、黒髪の彼はよく知っているのか?」
ちらっと目を動かした先にはシェラルドがいる。シュティと踊っていた。すぐ隣にいる状況なのだが、急に名前を出され、フィーベルは内心どきっとする。それでも平然と答えた。
「ええ。城でお世話になっております」
「そうか。かっこいい騎士だな」
フィーベルは思わず顔を輝かせる。
自分のことのように嬉しくなった。
「はい。とてもかっこよくて素敵な方です」
先程まで緊張していたというのに、隠すことなく声を弾ませる。先程とは打って変わった様子なのが分かったのか、ユギニスは少しだけ目を丸くした。
「フィーベルがそこまで褒めるとは興味深いな。彼とも後で話してみよう」
「ぜひ!」
好きな人が評価されるのは純粋に嬉しい。
自身でも素敵だと思っているし、騎士としても立派で、なによりかっこいいのだ。それがユギニスにも伝わってくれると嬉しい。
今、状況的にシェラルドとは話せないのだが、近い距離にいる。昨日までは他国同士で話すことすらできなかった。傍にシェラルドがいるだけで、フィーベルはじんわり喜びが溢れていた。
シェラルドは普段、エリノアの側近だ。そのため、王女の扱いには慣れている。今更ながら、そういう理由でシュティの相手役を任されたのだろうかと、踊りながら思い始める。さすがシュティは王女なだけあり、ダンスも品があって上手だ。そう伝えれば、微笑んでくれた。
「ありがとうございます。公務はいつも兄が行っておりますから、私にできることは全て完璧にしておきたいのです」
「努力家なんですね。……あまり頑張りすぎませんよう」
「お優しいのですね。フィーベル様と一緒ですわ」
なぜここでフィーベルの名前なのだろう、と思いつつシェラルドは笑ってみせる。少しだけ顔が引きつったかもしれないが。シュティは肩を揺らした。
「先程お二人が見つめ合っている様子を見てしまって。とても仲がよろしいのですね」
「っ! いや、あれは……」
バレていたのか。
フィーベルとは久しぶりの再会で、互いに何秒か見つめ合ってしまった。言葉にしなくても互いの考えが分かった気がしたのだ。シェラルドが口元を緩ませていれば、フィーベルも同じ表情になった。少しだけ、瞳も潤んでいた。
格好もアルトダスト側から用意されていたのだろう。髪と同じ色合いのドレスを着たフィーベルは、息を呑むほどに美しかった。
会場に移動している間も、ほんの少しだけだが横に並ぶことができた。各国の王族が側にいるので会話はできなかったが、互いに目を合わせて微笑を浮かべることはできた。その時間だけで満たされた気持ちだった。
「……良き仲間なので」
なんとか誤魔化そうとする。けっこう自分でも苦しいと思ったが、ここで親密な関係であると悟られると後々何かあるのではと予感した。
「安心して下さい。誰にも言いませんわ」
シュティは小声で安心させるように言ってくる。女の勘というのはいくつであっても働くものらしい。苦虫を噛み潰したような顔になりつつ黙るが、シュティはただ柔らかい表情だ。
「指輪をされていますが、お相手は彼女ですか?」
あえて名前を出さないようにしてくれたが、指輪に気付くとはなんと聡い。その通りなわけだが、現在フィーベルは指輪をしていない状態だ。尚更説明が難しい。すると表情に気付いたのか、シュティは慌てた。
「ごめんなさい。私はただ幸せなそうな方々を見るのが好きなのです。私もいずれ……結婚をしますから」
「……ご予定があるのですか?」
「いいえまだ……。兄は焦らなくていいと言ってくれていますが、自分の務めは分かっています」
そう言いながらも、シュティは少しだけ複雑な表情になっている。まるで自分に言い聞かせているかのように。おそらく、気持ちはまだ追いついていない。
シェラルドは少し考え、素直に口にする。
「タイミングはあると思いますが、一番大事なのは自分の気持ちなのでは」
「気持ち……」
「結婚を重要視されているのは……私も側近を務めておりますので、お気持ちはお察しいたします。ですが気持ちのない結婚というのは、自分にとっても相手にとっても辛いものです」
主人達は自分の気持ちに真っ直ぐだ。エリノアは文通を交わしていた氷の王子と交流を深めているし、クライヴはユナに夢中なようだが、自分の意志で動いている。そこに誰の思惑もない。ただ自分が向き合いたい相手に向き合っている。
側近は、それを見守るだけ。
それが務めであると考える。
と同時に、シェラルドも自分も気持ちに向き合うことになった。今まで散々色々あったし、避けようともしたが、それができなかった。知らぬ間に心は向いていた。今はそれでいいと思っている。真っ直ぐフィーベルに向き合いたいと思っている。だからシュティにも後悔してほしくない。そんな思いも込める。
するとふふっと小さく笑ってくれた。
「ありがとうございます。……私も、素直にならないといけませんわね」
後半、誰かを思っているかのような言い方だった。
シュティにもそんな相手がいるのだろうか。
「きゃあああっ!」
「わぁっ! なんだこれ!?」
急に大声が聞こえ、シェラルドは顔を険しくする。
すぐさま自分の後ろにシュティを隠した。
近くに目を動かせば、フィーベルがユギニスの前に盾となり、ユナはクライヴの前に出て、どこに仕込んでいたのか短剣を取り出している。全員に緊張感が走り、前を睨んでいた。
どうやら会場の奥から煙が発生しているようだ。異変に気付いた使用人や騎士、魔法使い達が客人を安全な場所に避難させる。だが間に合わなかった者もいるようで、その場で数人が倒れていた。
「水の絹布!」
聞き慣れた声がすると思えば、会場の奥にイズミの姿があった。目を閉じてぐったりしているアンネを支えながら、自身と近くにいる者達に魔法をかけている。水のベールのようなものを生み出し、煙を吸わないように防御していた。
こちらにはまだ煙は来ていない。皆が様子を伺っている状態だ。倒れている人以外はみんな逃げられたのか、会場はいつの間にか人が少なくなっている。
そこに、足音が一つ聞こえてきた。
「……君は」
ユギニスが目を見開く。
「ローガン様!?」
シュティは思わず声を大きくする。
名前を呼ばれた男性は、口元を横にした。
年齢はユギニスと近いだろうか。ふんわりとした長い茶髪を後ろに結んでいる。垂れ目なので優しげな印象を受けるが、なぜだかその笑みは少し不気味に映った。
ユギニスはすぐに眉を寄せる。
「なぜここに? 確か君は追放したはずだが」
「……ひどいですね殿下。革命を起こす際、たくさん手を貸したはずなのに」
「それは感謝している。それなりの報酬も支払ったはずだ」
「私が欲しいものはまだ手に入れられていません」
彼はすっと手の平を、ある人物に向ける。
「……シュティ殿下。どうして私から逃げたのですか」
シュティは身体をびくつかせる。弱々しくシェラルドの制服を掴んだ。震えているのが分かるほどに怯えている。シェラルドはいつも以上に厳しい顔で相手を睨む。ユギニスはシュティがいる場所まで移動し、守るようにして片腕を伸ばす。憤った声色を出した。
「妹に近付くことは禁じたはずだ」
すると相手はふう、と息を吐く。
「私は伯爵ですよ? シュティ殿下と添い遂げるだけの身分は持っているはずですが」
「たかが伯爵の分際で笑わせる。お前のせいでどれだけシュティが傷ついたか……!」
「ああ……少し触れただけではないですか。柔らかくていい香りがしましたね。今すぐ私の手の中に閉じ込めてしまいたい」
「――黙れよおっさん」
急に風と共に声が乗った、と思えば、ローガンはいつの間にか吹き飛ばされていた。壁に激突し、大きい音が会場に響く。その場にいた者達ははっとした。
ローガンが会場の真ん中に立っていたはずなのに、いつの間にか亜麻色の髪を持つ青年が立っている。シュティは思わず懇願するように名を呼んだ。
「リオっ!」
すると蒼色の瞳が光る。
「高速」
瞬く間に移動したと思えば、リオはシュティの目の前にいた。シュティはリオの姿を見て、ぽろぽろと涙をこぼし始める。
「……泣くなよ」
手の甲で拭ってあげている。シュティは小声で「ごめんなさい」と言うが、涙が止まらない。リオは溜息をつきつつ、何度もごしごし拭っていた。
「リオ」
短くユギニスが名前を呼ぶ。
リオはすぐ頷き、シュティを横抱きした。
「瞬間移動」
一瞬で二人の姿が消える。
残ったのは微かな光の粒だけだ。
しばらくすると倒れていたはずのローガンがゆっくりと立ち上がる。シュティの姿が見えないと分かると、目を大きく開いた。
「……姫は、姫はどこです」
「ここにはいない。これ以上騒ぎを起こすのなら、それ相応の罰を受けてもらうぞ」
「罰……? そんなものを受ける暇があるとでも?」
言いながら彼は右手を伸ばす。
茶色い瓶だ。手のひらサイズのただの瓶に見えるが、形は少し珍しい。真ん中は少しくびれており、持ち手のところは花の装飾がある。かなり凝ったデザインだ。クライヴの側にいたラウラは、それを見て顔を強張らせた。
「まさか、魔女の媚薬……?」
「媚薬?」
クライヴが短く聞く。
「……かなり強力な媚薬ですわ。市場には出回っていない、魔女に依頼をしなければ得られない代物です」
「なんでそんなものを」
「ああ、ラウラ殿はご存知でしたか」
ローガンがにやっと笑う。
ラウラは嫌悪感を出しながら言葉を続けた。
「……娼婦やお客様の中には、薬を使いたがる方もいましたから。ですが、その媚薬は強すぎて危険です」
一般的な媚薬は特定の人物に向けて作られる。思い人だけに飲ませ、何かしらの作用で効果が発揮される。だがこの媚薬は、少ない分量で大勢を巻き込めるだけの力があるようだ。一定量の匂いを嗅ぐだけで効果が出るらしい。それを聞いてぞっとしてしまう。
「本当はシュティ殿下に使うために用意していたのですが……まぁいい。私の思い通りにならないなら、混乱を招けばいいだけです」
言いながら軽く瓶を振っている。
シュティに使おうとしたことに対し、ユギニスはさらに眉を吊り上げた。大事な妹を薬で意のままにするなど、言語道断だろう。
「……どれだけの範囲で効果が出てしまうのか、そこまでは分かりません」
小声でラウラが言う。
緊張した面持ちだった。
ここには客人が大勢いる。騒ぎでほとんどが会場から離れているが、彼が持つガラス瓶は通常の瓶よりも少し大きめだ。少しの分量でも強力なら、その瓶でどれだけの被害が出るだろうか。
瓶はローガンの手にある。どうやってそれを防ぐか。少しでもこちらが不審な動きをすれば、あっという間に薬が床に広がってしまう。
皆がそれぞれ頭を働かせる。それは同時にすぐに動けないことを意味している。しんと静かになる中、ローガンは瓶の蓋に手をかけ、開けた。勝者のように笑みを大きくする。
と、彼の後ろで誰かが動いた。
その人物は、ローガンの脇の下に自分の腕を差し込む。瓶を持つ彼の右腕を自身の手で掴んでおり、瓶が揺れないよう、身動きが取れないようにしていた。
「エダン殿!?」
シェラルドは思わず名前を呼ぶ。
彼を拘束していたのはエダンだった。なぜか制服ではなくタキシードを着ている。ヴィラのところに行ったはずだが、騒ぎに気付いてこちらに来てくれたのだろうか。
「このっ、離せ!」
「その瓶を渡せ!」
医師でもあるエダンは薬にも詳しい。これが何の薬なのか、すぐに分かったのだろう。いつも穏和な表情だが、今は厳しい顔になっている。どれだけの被害が起きてしまうのかと思えば、当たり前かもしれない。
ローガンは舌打ちした。
「灰被りの黒煙!」
彼から急に灰掛かった黒い煙が広がっていく。それはみるみるうちに周りの視界を遮る。エダンは決して手を離さなかったが、その煙を吸って咳き込んだ。
「気をつけろ! ローガンは煙を扱う魔法使いだ!」
ユギニスが叫んだ。
会場では未だ白い煙が発生しているが、彼は黒い煙まで発生させた。辺りが見えない。ユギニスは続けて「できるだけ吸うな!」と指示を出す。
どんどん煙が広がっていき、こちらまでやってくる。シェラルドはできるだけ煙に近付けさせないよう、クライヴとユギニスを守るため前に出る。フィーベルとユナも同じように動いた。
「霧!」
フィーベルは霧を生み出し、煙がこちらにやってこないようにする。が、霧はそこまで防御にはならない。煙に押されてどんどん呼吸が浅くなる。
「……せめて、この煙をどうにかできれば」
ずっと黙っていたクライヴが真剣な様子で呟く。これにはその場にいる全員が同意した。現状自分達だけ逃げることはできる。だが、倒れた人達や、別の場所にいるこの騒動を知らない客人達のことが気がかりだ。
使用人、騎士や魔法使い達は、真っ先に客人達を逃すことを最優先としていた。それはそうしろと、クライヴが事前に命令していたからだ。そちらが少しでも落ち着けば、加勢してくれるはずだろう。それを待つほどの時間があるか、という話になるが。
と、ローガンが少しだけ身体をぐらつかせていた。
見ればエダンが歌のようなものを口にしている。
「子守唄か」
クライヴが気付く。
シェラルドは頷いた。
「不眠症の方々に処方してるものですね」
エダンは魔法を使って不眠症の患者に催眠魔法を使うことがある。普通の魔法では効果が少し強過ぎるため、子守唄と魔法を組み合わせてゆっくり眠りに落ちるようにするのだ。
ローガンはすでに瓶の蓋を開けている。少しでも動けば中身が溢れてしまう。だからエダンはこの方法を取ったのだろう。実際彼は少しだけうとうとしているように見えた。少しは煙の量も減ってきた気がする。
「今なら……!」
フィーベルがすぐに走り出そうとする。シェラルドは何をするのか気付いたのか、腕を掴んで止めた。
「まだ早い」
「でも」
「煙の量が多い。もう少し待て」
できれば早く収束したい。そんな気持ちもあったのだが、シェラルドは真剣な表情で首を振る。フィーベルは少し歯痒かった。今現時点で自分にできることがない。
するとシェラルドは無造作に頭を撫でてくる。顔は前を向けていたが、安心させるように。それにフィーベルは少し心が救われた心地になる。
「我は風と共にあり!」
会場の奥から高らかな声と共に突風が吹く。
瞬く間に会場にあった煙が風によって流され、周りの様子も見渡せた。イズミは引き続き魔法で防御しており、倒れている人達に使用人達が対応していた。
「ヴィラさん……!」
フィーベルは思わずほっとした顔になる。
ドレス姿なのに魔法兵の制服を肩にかけているヴィラが、きりっとした表情をしつつ手にはピースサインを作ってくる。いつの間にか身体は回復したようだ。そしてこの場の状況を察知して来てくれた。
「くっ……!」
ローガンは眠りかけていたが、周りの様子に気付いたのか、腕を思い切り振るう。持っていた瓶が揺れ、中の液体がエダンの顔に思い切りかかった。
「エダン様っ!」
悲鳴にも近い声をフィーベルが上げる。
エダンは顔色を変えず、ローガンから手を離し、思い切り身体に突進した。その勢いで、彼の手から瓶が宙を舞い出す。
誰もが瓶に視線を向ける。
天井に向かって飛び出したそれは、ゆっくりと床へと落下していく。エダンは大声で叫んだ。
「ヴィラ!!! イズミ!!!」
名前を呼ばれた二人は、瞬時に動いた。
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