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66:幻を見る者、信じる者
肌の熱。それが心地いいのは、想いが通じたことによる高揚も関係があった。一旦離れてドアに向かうシェラルドは内心、大きな息を吐く。最初の彼女の言動に戸惑ったが、ようやく会えた喜びは大きかった。
何もしない、というのは安心をさせるためで、本当にそのつもりであった。のに、まだ触れていたいと思ってしまって。それを受け入れてくれた彼女の優しさに甘えた。そして、少しだけ困らせたくなってしまった。あまりにも可愛いから。
(……やりすぎたな)
シェラルドの顔は若干緩んでおり、手で頬に触れたら熱い。彼女の前では余裕ぶった様子を見せていたものの、内心少し反省している。止めてくれて感謝した。
想いが一緒であっても現状は何も変わっていない。なんならすぐにでも本物の花嫁にしたくて、生涯の約束を口にすることだってできた。だがそれは少し早急すぎる。然るべき時に……準備をした上で、言いたい。結ばれた場所をユギニスが作ってくれたわけだが、何もかも王子に用意してもらうのは少し、男として色々考える。今度は全て、自分で用意したい。
ドアをノックしたのはビクトリアのようだ。
いつの間にか一時間も経っていたのか。
「シェラルド様。夕食のご用意ができました。お持ちします、と申しましたが、こちらの部屋でも、別室で召し上がっていただくこともできます。どちらに致しますか?」
「ありがとうございます。せっかくですから、この部屋でいいですか?」
フィーベルを疲れさせてしまったと思う。
この部屋の方がいいだろう。そう判断した。
すると相手はくすっと微笑む。
「かしこまりました。ではお持ちいたします」
意味深な笑みに、シェラルドは一瞬固まった。
その間にもドアは閉まっていく。
シェラルドはフィーベルがいる場所へ戻る。あのまま寝ころんでいるのか、静かだ。食事のことだけ伝えようと覗き込めば、彼女はすやすやと眠っていた。シェラルドは柔らかく笑う。起こさないように慎重にベッドの端に座り、寝顔を見つめる。
フィーベルの首元にはチェーンにつながれた指輪がある。姉であるルカがくれた指輪だ。近くで見れば、薄っすらと光が見えるのだ。一番相性が良ければ真っ赤になる。先程首元に口づけを落としながら、その色をはっきり見た。自分の指輪と同じ、濃く綺麗な赤を。だから今も、その色になっているはず。
だが。
「――ない」
光が、見えなかった。
慌てて自分の指に収まっている指輪を見る。
するとほのかに赤く光っていた。
だがフィーベルを見ても、その光がない。
(……おかしい)
シェラルドは異変を感じた。
この指輪は特注だ。ルカのことだから不備はないはず。それに今までも、必ず色で示してくれた。もし関係が冷え切っていれば寒色系の色になる。それなのに色すらないなんて。
シェラルドは相手の指輪に触れた。いや、触れようとしたが、触れることができなかった。それはまるで空気を掴むように掠める。
思考が停止し、今度はフィーベルに触れようとする。が、触れられない。触れたのは柔らかいベッドだけだ。と分かった時、彼女の身体が光り、すぐに光の粒へ変化する。それは、一瞬にして消えた。
シェラルドは何かを感じ、バルコニーを見る。
その目が、揺らいだ。
「主。幻覚が解けました」
「いい。予想の範囲内だ」
両手を上に向け魔法を放っていたラウラに対し、ユナは動じずに答える。黒い制服に白いマント。いつもは下ろしている髪を、今はポニーテールにしていた。凛とした普段の姿とは雰囲気が異なる。
ラウラはうっとりとした表情になった。
「その髪型もお似合いですわ。普段からそのようになさったら良いのに」
「邪魔だから一つにしているだけだ」
ユギニスや客人に向けては丁寧な口調だが、ラウラの前ではかなりくだけて話している。ユナは近くに待機させている、小ぶりの馬車に近付いた。
窓に顔を寄せれば、フィーベルが乗っていることが確認できる。この国の軽装姿で眠っていた。正確には、寝ている彼女にラウラが魔法を使った。
『安らかな夢』
ラウラは幻覚の魔法が使えるが、夢を見せることもできる。その夢に囚われていれば、眠ったままということだ。
「着替えの時、どんな様子だった」
「よく眠っていましたわ。お疲れなのでしょう」
ラウラがフィーベルを着替えさせた。眠ったままだったこともあり、特に抵抗はなかったらしい。これから向かう場所にドレスは動きづらい。そのため、今の間に着替えさせたのだ。ラウラは娼婦館にいた頃、寝ぼけ眼の仲間の服をよく着替えさせていたようだ。慣れた手つきは見事なものだった。
「……まさか二人きりの時に仕掛けるとはね」
側で見ていたリオが口を挟む。
シェラルドがユギニスに呼ばれたと思っていたら、リオもユナに呼ばれた。シェラルドとフィーベルが二人きりになり、少し経ってから瞬間移動の魔法を使った。ユナをバルコニーまで運ぶため。そしてフィーベルとユナをここまで運ぶため。
ユナはバルコニーでしばらく中の様子を窺っていた。シェラルドが少し離れた間を狙い、二人に合図を出した。そしてラウラの魔法で、代わりのフィーベルをベッドの上に寝かせたのだ。
幻覚は姿形を見せることはできても、触れることはできない。つまり、触れてしまえばそれが偽物であるとバレてしまう。だがユナにとっては些細なことだった。一瞬でも騙せたのなら好都合。これからのことを、あの騎士にも知らせることができるというもの。
ユナは再度身支度を整え、リオに言う。
「ご苦労。シュティ殿下の元に戻っていい」
「……これを分かっててユギニス殿下はあの騎士に時間を与えたわけ?」
「報酬は先に渡したはずだ。詮索するな」
睨むわけではないが真っ直ぐ向けられたエメラルドグリーンの瞳に、リオは少しだけ怯む。迷いのない者の瞳は、時に美しさよりも怖さが勝ることがある。
だがむっとして言い返した。
「ここまでさせておいて詮索するなはないよ。それなら俺に余計なことを言わなきゃよかったんだ」
お金をもらえるならなんでもする。それが傭兵の仕事だ。だがあまりにも、シェラルドが哀れに感じる。再会できたと思ったら、引き離されるだなんて。
それにリオは、ただの傭兵にしては色々と情報を知りすぎていた。ユナが実は王族で、ユギニスとシュティと兄妹であるのは、この国にとってはトップシークレットのようなもの。最も、余計なことをすればユナの手によって消される可能性もあるため、むやみに言うことはないが。
そうでなくても、わざわざ傭兵にする話なのかと思うことさえも聞いている気がする。わざとなのか、気にしてないのか分からないが、それなりに個人的なことも知っている。現に今だって、イントリックスには内緒で、フィーベルをどこかへ連れ出そうとしている。
ユナはしばらく黙っていた。
リオをじっと見つめた後、口を開く。
「わざわざフィーベルと話す時間を与えた。それで十分のはずだ。あんな男のために慈悲を与えたユギニス殿下はお優しい。私は必要ないと言った」
どうやら問いへの返しらしい。
ユギニスもこのことは知っているということか。ユナの態度を見ると、彼が命令したのではなく、ユナが実行を決めたのだろう。ユギニスは協力しただけだ。
そしてユギニスは、シェラルドに時間を与えた。二人きりになれる時間を。悔いのないように。まるで最後だとでも言うように。
「そろそろシュティ殿下の元へ戻れ。お前がいた方があの方は落ち着く」
「……前々から思ってたけど、俺はただの傭兵で、この国の者じゃない。なのになんで姫の側に置くんだ」
ものすごく今更なことなのだが、本来なら大事な姫の側にただの傭兵を置いておくなんて考えられない。いつかこの国からいなくなるのに。報酬をもらっている立場なので、仕事は行うが。
「そうだな」
あっさり頷かれ、リオはがくっとなる。
「だが」と言葉が続いた。
「お前は魔法が使える者の苦労をよく知っている」
「!」
「魔法が使える者は羨望の眼差しを向けられるが、同時に恐怖の対象でもある。何も持たない者からしたら強い力を持っているからな。各国を渡り歩いていたというのなら、それなりに色々あったのだろう」
「…………」
リオは微妙な顔になる。
ユナは鼻で笑った。
「シュティ殿下から話は聞いた。お前は魔法が使えるからこそ自身の義務と責任を果たしている。信頼しているからこそ頼めるんだ」
「……なんだよそれ」
「後から話はあると思うが、お前にはこれからもシュティ殿下を任せたい」
「はぁ!? 何言って」
今だけの話だと思って側にいるのに。
それでは傭兵ではなくなってしまう。
傭兵はその時だけの雇われだ。仕事の交渉も自分でできる。なにより自由がある。報酬分だけの仕事を行えばいい。それ以外は自分で決める。縛られることがない。それを気に入っているのに。
リオが慌てているその間にもユナは、御者とラウラに指示を出す。自身は馬で移動するのか、御者から馬を受け取っていた。馬を軽く撫でながら話は続く。
「国を出たいなら止めないが、正式にアルトダストに来るなら私達は歓迎する。この国は強いと言われるが、皆の助けがないと成り立たない。人との結びつきを大事にしているから自国で立っていられる。私達はお前を同志だと思っている。だから助け、頼る。それを忘れないでくれ」
リオは再度微妙に顔になってしまう。
どうやらユナは、魔法使いの苦労をよく分かっているらしい。魔法使いが多い国だからだろうか。「魔法を封じ込める宝石」が存在しているからだろうか。
ずっと一人で生きていた。
これからもずっと一人で生きるはずだった。
傭兵とはそういうものだ。
馴れ合わない。わざわざ誰かとつるまない。ただの道具としか見られない。気にもかけられない。そういうものだと思っていたのに、まさか同志と言われるとは。思わず心が動かされそうになる。
「……魔法使いのこと、大事にしてるんだな」
思わず呟く。
すると「ああ」と即答された。
そのまま、ユナは珍しく口を横に広げる。
「本当はまんざらでもないんだろう?」
「は?」
「シュティ殿下の前だと態度が違うことは気付いている」
「っ……!」
「大事な姫だ。大事にしてくれる者に任せたい」
その時のユナは、いつもと少し違った。
従者というよりはまるで、妹を心配する姉のような表情だった。
フィーベルはふっと目を開ける。
そこは馬車の中だった。ゆらゆらと揺れながら動いている。ぽかんとしていると、自分の格好が普段と違うことに気付く。なぜかこの国の軽装になっていた。
「気が付かれました?」
隣を見ればラウラが座っていた。
いつものように袖の長い格好をしている。
「……あの、ここは」
「急に申し訳ありません。わが主、ユナ様がどうしてもこの時間にフィーベル様に来てほしいと」
「ええと……」
「フィーベル様。こちらが提示した、協力してほしいことの三つ目を覚えていらっしゃいますか?」
「三つ目……って、ことは、もしかして民族の方と話すという」
「そうです。彼らは主に夜に行動します。話をするなら、この時間がいいからと」
「そうなんですか。……あれ。私、もしかしてずっと寝ていました?」
「お休みのところを急に来ていただくことになりましたから……。到着までまだ寝ていても大丈夫ですよ」
「そ、それはさすがに……。それに、いい夢を見ていた気がします」
「夢、ですか?」
「はい。大好きな人に再会する夢を」
フィーベルは嬉しそうに微笑んでいた。
それを見たラウラは静かになる。
『幻と虚』
先程まで起きていたことを、フィーベルは夢だと勘違いしている。夢であると思い込ませるため、ラウラが魔法を使った。一体どこまで夢だと思っているのか、詳しくはラウラにも分からない。確実なのは、シェラルドと二人きりで過ごしたはずの時間。それをフィーベルは、夢の話だと思っている。
ラウラが使った魔法はそれなりに複雑な部類にもなるため、そこそこの魔力が必要になる。自身では足りないので、魔力が多いリオに吸血した。ものすごく嫌な顔をされたが、これも主であるユナのため。致し方ない。
フィーベルはどうやら素直すぎる性格のせいか、幻覚の魔法と相性がいいらしい。こちらが余計なことをしなくても、勝手にその通りだと思ってくれている。疑うことをしないのだ。こちらとしてはありがたいが同時に、危機感が足りないのかもしれない。
(……このまましばらく忘れてくださいな)
ラウラの魔法も永遠ではない。いつか思い出すだろう。フィーベルが思い込む限りはそのままだが、それでも何かの拍子で思い出す。だが、とある場所まで向かえば、もう後戻りはできない。そして全て決まる。
だから、フィーベルは忘れていた方がいいのだ。
これからのことを思えば。
共に揺られながら、ラウラは窓に顔を向けた。
前だけを見つめ、馬を走らせる自身の主。迷いのない強い瞳。それは迷いがない実直な彼女の姿そのもの。それが美しい。彼女の生き様が美しいのだ。
ラウラはそっと、自身の手を胸に置く。
ただ、彼女の幸せを願った。
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