出発

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出発

 ほの明るい光が、照明のないこの部屋を僅かながら照らし、朝の訪れを伝える。暗闇しか見えていなかった瞼がかすかに白んで、サクの意識も次第に鮮明になる。少し遠くで、「にゃおん」とご飯を要求する声がする。 「よーし、ごはんだな」  まだ眠気が取れていない重い腰を上げて、昨晩湖でとれた魚をフレーク状にしたものを大皿の上にあけると、ヤマネコは瞬く間に平らげてしまった。 「また太ったんじゃないか?」  ご飯を食べるのに丸まった体でも、ヤマネコの背はサクの太ももあたりまでの高さがあり、小さく上下運動するもふもふのからだを眺めながら、この背にまたがって萌黄色の草原を走ってみたいという気分になった。  このヤマネコとと共に暮らすようになったのは、三ヶ月程前だった。木の皮で爪を研いでいたそのヤマネコは、薄汚れており野生のツンとくる匂いも体から発してはいたが、人慣れでもしているのかおおよそ山育ちとは思えない面構えで、サクが近づいてもヤマネコが警戒することはなかった。あまりに汚れがひどく、骨格がわかるほどやせ細っていたヤマネコをサクは放っておく気にはなれず、連れて帰ることにしたのだ。  ご飯を食べ終えたヤマネコは、だだっ広く寂然とした部屋をフル活用し、自由気ままに散歩し始めた。大きさの割にまだ子猫なのか、好奇心が旺盛で、遊び盛りな様子を眺めていると、このヤマネコを見つけた時から気になっていた、左の後脚から背にかけて付けられた大きな傷跡が、生まれついた時から備わっていた模様に見えてくる。  サクは悩んでいた。サクは、長い間一人で居座っていたこの施設を出て行くつもりだったからだ。どれほど時間がかかるかもわからない。そんな旅に、手負いのヤマネコを連れて行くのも気がひける。とはいえ、一生残るであろうこの傷は、このヤマネコが野生で、たった一匹で生きていく上での大きな壁になることは明白だった。苛烈な自然選択には逆らえず、このヤマネコは遅かれ早かれ命を落とすだろう。  悶々と思案していると、ヤマネコは人の心配などつゆ知らずという無邪気な顔で、サクの膝に前足を置きそのまま休憩に入ってしまった。疲れたのか眠たそうにゆっくりと瞬きをするヤマネコを見ているうちに、サクがこの施設を出ると決めたきっかけもまた、ヤマネコとの出会いだったことを思い出した。生き物との触れ合いがこれまでほとんどなかったせいだったのだろうか、サクは現状になんの疑問も感じることなくただ時が過ぎるがままにぼんやりと息を吐いてきた。ヤマネコと共に過ごすうちに、サクには不思議と、使命感のようなものに駆られるようになっていった。  あの、5人で過ごした日々に、このヤマネコも加わっていたとしたら、もっと楽しかったに違いない。特に、動物に興味津々だったアレクならなおさらだ。  思わず笑い声を漏らしそうになった自分を顧みて、また昔を想起して時間を無駄にしてしまうのも勿体ないと、サクはもうこれ以上考えるのをやめて、リュックに湖水を浄化させて手に入れた水と、ヤマネコの大好物である干し魚をぎゅうぎゅうに詰め込みはじめた。  荷造りを終えると、サクは再びヤマネコを見つめて考え始めた。この期に、ヤマネコに名前を付けてみようかと思い立ったのだ。  正直、名前なんてどう付ければよいのかサクには分からなかった。たくさんの言葉や知識は学んできたつもりではあっても、自分たちの存在を定義する名称の付け方を示した文献は一つもなかった。  初めて名前を付けてもらった日のことを思い出してみた。まだ幼くて、大した知識もなかったので、今思えば安直すぎる命名だったかもしれない。でも、その行為に何か意味さえあれば、きっと特別問題はないだろう。  サクはその日、約束を果たすという思いを込めて、ヤマネコに名前を付けた。 「じゃあ出発しよう。メテオ」
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