聖域

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

聖域

 私はいつも彼を見ている。きまった時間に、きまった場所で、きまった動きをくり返す彼を。  私は、彼のことをほとんど知らない。名前も、学年も、クラスも、誕生日も、声も、趣味も、交友関係も、テストの成績も。顔だってよく知らない。廊下ですれちがっても、きっと気づかないと思う。  ――それでいいの? 満足なの?  そんなことを訊く声がある。そういうとき、私はきまってこう返す。 「もちろん」  私が彼のことについて知っているのは、たった三つ。  右利きであること。野球部であること。ボールを投げているその様子が、この世のなにより私を惹きつけるということ。  ほかにはなにも知らない。そして、これ以上のことを知りたいとは思わない。  ――それでいいの? 満足なの?  私は「もちろん」と答える。機嫌がいいときには、さらにこう続ける。 「ここであれを見ている時間が、いちばん幸せだから」  いちばん幸せ。私のなかに存在する、掛け値なしの本心。  放課後。私は、教室から見ている。グラウンドの隅で、彼が緑色のネットにむかってボールを投げこむ姿を。  さっきまで授業があった教室に、今は誰もいない。西日の差す窓際の、誰かの席に私は座っている。そこだと彼の姿がよく見えるから。今日も彼は、一人でボールを投げこんでいる。  照明の落ちた誰もいない教室は、あくまでもしずかだ。しずかで、少しだけひんやりとしている。私はブレザーの下に着たカーディガンの袖をたぐり寄せる。彼は足元のかごからボールを一つ手にとる。机の上で頬杖をつきながら私は見ている。彼はボールを投げる。  かごの中のボールをすべて投げてしまうと、彼はからっぽのかごを持ってボールを拾いにいく。つかの間のインターバルが訪れ、私のまばたきの回数が増える。  私は小さく下唇を噛みながら、頭を窓ガラスにもたせかける。髪の毛をとおして、ガラスの冷たさが頭皮に伝わってくる感覚が好きだ。そうしながら、目を閉じてみる。今よりずっと前から、私はここにいたような気がする。  たったひとりで生きている自分を想像してみる。しずかな教室から、私は窓の外のうつり変わる季節を見送っている。昼も夜もなく、何年も何年も、ただ窓の外を眺めているのだ。雨は土を濡らし、風は葉を落とし、太陽は私を透きとおらせる。そしていつの日か、私は変化を変化として捉えられなくなる。そんなさびしくも誇らしい自分を想像して、少しだけ唇を嚙む力を緩める。  私がその空虚でしめやかなトリップを終える頃、彼はすでに黙々とボールを投げはじめている。  ――なんであの人?  ある日、そんなことを問いかけられた。  それは、私がこれまでにむけられたありとあらゆる問いかけのなかで、もっとも答えを導きだすのが困難な質問だった。私は沈黙をつらぬくことでしか、自分の意思を表明することができなかった。  私は、彼の腕の振りが好きだ。持ち上げられる左足が好きだ。球を投げたあとに、所在なげにおろされた褐色(かちいろ)のグローブが胸元に引きあげられるその瞬間が好きだ。彼の指先から離れてしまったボールには、興味がない。投げられたボールが速いのか遅いのか。狙ったところに向かったのか否か。そんなことはどうでもよかった。私はただ、彼がボールを投げるその瞬間を見つめていたい。  このように、答えはちゃんと存在する。それは、なんであの人? という問いかけに対する、明確な回答につながる。つながるはずなのに、私は答えを示すことができなかった。  彼がグラウンドの隅のその場所でボールを投げるのは、決まって三十分間。投げはじめて三十分が経つと、彼はボールの入ったかごを持ってどこかにいってしまう。彼がいなくなってしまうと、私はこの世界にひとりきりになったような気持ちになる。  どうして私は、彼がボールを投げるその瞬間が気になるのだろう。考えたことがある。けれど、答えは見つからなかった。私が答えを見つけようとしていないからだ。繰り返される年月の中で季節を失うのとおなじように、私は私の中に芽生えた疑問を時間の経過とともに見失ってしまう。そんなふうにして、真実はどこまでも深く遠ざかっていく。真実を閉じ込めた迷宮からはるか離れたグラウンドでは、彼が粛々とボールを投げつづけている。私は今日も、その光景を見つめている。  ――あの人の名前、教えてあげようか?  ある日、そんなことを言われた。 「いい」  私はそのとき、なぜだか不愉快な気持ちになった。なにかを考えるより早く、反射的にそう答えていた。  かごを抱えた彼が姿を見せる。グラウンドの隅の、いつもの場所。ほんの少しだけ、私の眉間にしわがよる。続々と投げこまれていくボール。私は彼の右腕を、上げられた足を、ふわりと動くグローブを見ている。  かごの中のボールがなくなり、彼はボールを拾い集めるために歩きだす。例外なくやってくるインターバル。頬杖を崩し、窓に頭をつけてグラウンドを見下ろしながら、私は彼の名前について考えていた。  彼にも、名前がある。  そんな当たり前の事実を思うだけで、私はひどく不安定な気持ちになった。いつものように、おだやかな心でグラウンドの方を見ることができない。いやな予感も覚えた。それ以上は考えてはいけない、と私の中でだれかが警告を発していた。  私は考えることをやめた。そして、三十分が経過するより早く、窓から目を背けた。そんなことをするのは初めてで、私は今にも泣きだしそうな気分だった。  次の日、彼はグラウンドに姿を見せなかった。その次の日にも姿を見せなかった。私は待った。いつもの席で、頭を冷たい窓ガラスにもたせかけながら。いつまで待っても、彼はグラウンドに姿を見せなかった。私は誰もいない教室から、誰もいないグラウンドを眺めていた。  ある日、雨が降った。雨は音もなく降り続け、教室の空気を重くする。私は小さくあくびをもらす。雨は、瞼のふちをも湿らせる。今日も彼はいない。  窓の外を見つめながら、私はいくつもの季節を見送った。そして、彼が姿を見せるのを待った。じれったさはない。いつまでも待っていられる。そう思った。  そして、その日は突然やってくる。  夜の教室に、私はいた。耳鳴も息をひそめるほどの静寂。空にはまばらな星の光がある。紫色の雲がある。老いた月がある。ぽーん、ぽーんと点滅しながら南へむかう飛行機がある。すべてが理想的な配置にちりばめられている。グラウンドは、いくら目をこらしても暗くてなにも見えない。とてもしずかな夜だ、と私は思う。  私は頭をもたせかけ、窓の外を見つめる。暗いグラウンド。私は目を凝らして、そこにだれかの姿を見ようとする。どうして彼はいないのだろう? 名前も知らない、私が見ていた彼。  ――もう彼が姿を見せることはない。役目を終えたから。そうでしょ?  声はいつも、私に疑問を投げかけてくる。けれど、夜になってこうして問いかけられたのは、初めてのことだった。  そうか。ついにそのときがきたんだ。  私はカーディガンの袖を引っ張る。そして机の上に肘をつき、力なく開かれた両手をぴたりと合わせてみる。それから少しだけ指をずらして、組んでみる。いただきますから、お祈りのポーズ。  目を閉じる。暗闇をぬりかえる暗闇。なぜだか、より暗いほうが安心できる。  ひとりですごす夜だ。やっぱり明かりがほしい、と小さく思う。いちばんの願いごとがすぐに思いうかばないのは、いまに始まったことじゃない。しずかに朝を待つのはいやだった。 「さようなら」  目を閉じたまま、私はぽつりとつぶやいた。声は、夜の教室に煙のようにとけていく。  もうすぐ、ここにはだれもいなくなる。私は、遠い日のことを思いだす。  呼ばれる名前があったときのこと。吐く息が窓ガラスをくもらせていたときのこと。心に迷宮を作りだす、そのずっとまえのこと。いくつもの季節の向かい風に目を細めながら、私はそれらを拾いあつめていく。  次の朝日がのぼるころ、私はここにはいない。私がいなくなっても、変わらずに時はながれ、雨は降り、誰かがボールを投げるだろう。そして、聖域はひっそりと光を失うのだ。  ――だいじょうぶ。すべて元どおりになるから。  それは、純粋なささやき。私は今、答えを求められていない。つう、と涙がひとすじこぼれる。悲しくはない。こんなにも穏やかな気持ちで涙は流れることを、私ははじめて知った。 「ほんとうに?」  ――ほんとうよ。聖域は、なんどでも甦るの。  なんどでも甦る。その言葉は、私を安心させた。やわらかく、あたたかい毛布に包まれたような穏やかな気持ちになった。  私は彼に「ありがとう」と言った。ずっと漂流していた私を、この場所にとどめてくれた彼。そして、私を受け入れてくれたこの教室。涙は、音もなく流れつづける。  さいごにもう一度だけ、私は窓ガラスに頭をつける。一秒ずつ夜明けが近づいてきているのがわかった。私は目を閉じて、あくびをした。そして、眠ってしまうそのときまで、徐々に膨れあがっていく世界の鼓動を聞いていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!