二月十一日

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 思わず私は母へ「○○(娘)に医者になって欲しいの?」と聞いたら、母はしっかりと頷いた。そして、娘に今一度「なって」と言った。  娘と私は母の上で視線が合った。こんなこと今まで一度もなかった。娘の学校は早くから進路を決めないといけなくて、これまで何度も進路の話をしていたのだが、その都度母は「○○(娘)ちゃんがなりたいものになったらいいのよ。ゆっくり決めていいし、好きなものが見つかったらいいんじゃないの?」と言うスタンスだった。初めて母が自分の希望を口にした。娘は驚いた顔をしつつも「わかった」と母に言うので、私は再び驚いて「わかったの!?」とつい娘に確認してしまった。 「うん、頑張る。○○(娘)頑張るね」  娘は母を見てそう誓った。母はそっとほほ笑んで掠れた声で「ありがとう」と答えていた。  帰りの車の中で娘にあんな約束していたけど本気なのかと私は聞いてみたのだが、娘は「約束しちゃったし」と、案外本気だった。だから「やれるところまでやってみて、駄目なら駄目で違うところに行ってもいいしね」と言い「うん、頑張ってみるよ」と答えるのを聞いて、娘の気持ちにありがとうと呟いた。  実際に医者になるのは相当難しいけれど、このことは絶対に忘れられないと思う。母もきっと忘れずに胸にしまって旅立ったと思う。娘はずっと可愛がってくれておばあちゃんにしっかりと恩返しをしたのだと私は考えている。  この日の帰り際、娘が母の手を握って「そろそろ帰るよ」と、母に告げた。すると母は娘を見上げて「ありがとう」と返したのだが、明らかに声が涙声だった。横で聞いてた兄が「え、どうしたよ! 泣いてるの?」と母に問うと、母は頷いて「だって、嬉しんだもん。○○(娘)ちゃん来てくれて。みんなも来てくれて。嬉しいんだもん」と、照れ笑いをしながら涙を浮かべた。 「そんな事言われたら毎日来ちゃうよね」  私が冗談交じりに言うと娘が「また来るからね」と屈んで声を掛けていた。母は頷いて「おばあちゃん、頑張るから」と娘を見つめていた。  母が泣いたのはこの一度きり。思い返すと、テレビドラマで涙することはたまにあったように記憶しているが、こういう事で泣いたのを見たのは初めてだったような気がする。  悲しい事ばかりではない。母の入院中、私たちは幸せな時間もたくさんあった。今も書いていてその光景が目に浮かぶし、そんな風に思い返すと穏やかな笑みが浮かぶのだ。ああ、あの時は嬉しそうに涙を浮かべていたな、と。娘も嬉しそうだったし、傍らに居た兄も「○○(娘)ちゃん様様だよー。俺も嬉しい」とはしゃいでいた。
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