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しかも二つ。
「えっ?」
思わずしどろもどろになる。
確かに綺麗で素敵だなって思っていたけど、実際に手に取ることはしなかったし、一言もこのマグカップについて課長と会話を交わしてもいなかった。
「なんだ、お揃いは嫌か?」
若干シュンとしている姿は耳の垂れたワンコの様にも見える。いや、お揃いが嫌とかそういうことではなくて…
「なんでわかったんですか?」
「ん?ずっと見ていた様だったから気に入ったのかと思ったんだが…違ったのか?」
少し困ったように頭を傾げる課長に思わずトクンと心臓が脈打つ。いつもの自信たっぷりで、俺の言うことは絶対、完璧主義で貴様の戯言など即却下だと言わんばかりの圧で迫る黒いオーラを纏う課長は何処へやら。しおらしい課長はイケメン補正も相まって、一気に私の顔の温度が上昇する。何より、私の様子を見て気にかけてもらえたことが嬉しいとも思ってしまっている。
「…ありがとうございます」
お礼を言うと、安心したのか。どこかほっとしたような柔らかい笑みを浮かべた。
ーーーーーーーー
ーーー
「少し早いが、お昼にしようか?」
店員さんからの若干生暖かい視線を背に感じながらお店を後にした私たちは、丁度百貨店を出たところだった。
「そうですね。朝が少し早かったので、もうお腹ペコペコです」
時刻は丁度11時半を回ったところ。だけど色々歩き回ったし、慣れない場所ばかりだったせいか少し休憩出来たら嬉しいと思っていた。
「この近くに俺の行きつけの店があるんだが、そこでもいいか?」
この辺りの地理には全く詳しくないし、課長の行きつけと聞いてどんなお店なのかとても興味がある。
もちろん!と即答したが、何故かほんのり課長の頬が赤いような気がするが…。昨日ソファーで寝たから風邪でも引いたのかな?仕事で夜遅くまで起きていたのかもしれない。
帰ったらちゃんとベッドで休んで貰おう、そう心に決めて私の前を歩く課長の背中を追いかけた。
カラン…
扉を開けると心地いい鈴の音が響く。少し薄暗い店内の奥から「いらっしゃい」とマスターらしき男性の声がした。
課長が連れて来てくれたのは、カフェというよりも喫茶店と呼んだ方が相応しい、昭和レトロな雰囲気を漂わせるレンガ造りの小さな家。周囲をビルに囲まれたそこは、隠れ家と言っても良い。
課長がこんな場所を行きつけとしているとは…。どちらかと言えば高級ホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいるようなイメージだったんだけど。
いつもその席に座っているのだろうか?マスターが席に案内しなくても、流れるように中庭の緑がよく見える窓際の席に私たちは腰を掛けた。
「珍しく朝来ないと思ったら…。こういうことだったのか」
少し白髪が混じった短髪に、優しく微笑みながらおしぼりと水を運んで来てくれたマスター。年齢は50代くらいだろうか。
「余計なことは言わなくて良い」
拗ねたようにそっぽを向けて腕を組む課長を他所に、マスターは終始ご機嫌な様だった。
「僕は古井善。宗輔くんとは古い付き合いでね。彼がこんな小さい時から知っているんだ」
そう言うマスターは腰のあたりで手をひらひらと泳がせた。
そうか、この絶対零度の男にもそんな小さい時代があったのか…。一体どういう子供時代だったのかな?メガネをかけて中指をくいっと上げて、相変わらず偉そうに腕を組んで…そこまで想像して思わず笑みが溢れた。
「私は加藤あかりです。課長とは同じ職場で…。今度良かったら、課長の子供時代の話を聞かせて」
「いいからっ!」
ガタンっという大きな音と共に課長の声が店内に大きく響いた。肩を大きく上下に揺らし、テーブルの上の拳を強く握りしめる。あまりの勢いに私だけではなく、マスターも目を見開いたまま固まっている。
「す、すまない。気にしないでくれ。ここはミートドリアとコーヒーが美味いんだ」
悪い、と顔を手で覆ったまま俯く課長の表情は見えない。じゃあ課長のお勧めのものを、とマスターに伝えると手を目の前で合わせながら口パクで「ごめんね、許してやって」とバツの悪そうな表情でマスターは店の奥へと消えて行った。
いつも冷静沈着で、どんなトラブルがあっても動揺する姿を見せたことのない課長。突然でとてもびっくりしたけど…こんなに余裕の無い課長を初めて見たけど…。不思議と今まで感じていた恐怖とか、ましてや嫌悪感は微塵も感じられなかった。
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